2015年
5月
26日
火
魚へんに春「鰆」。
「サワラ」なんですねぇ。
旭東教会のある西大寺近郊のスーパーの魚屋さんに行くとしばしば目に止まっていたのが鰆の切り身、そしてお刺身達だった。
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でも、生まれてこの方、サワラのお刺身があるとは、岡山の暮らし始まって暫くするまで知らなかった。
それは妻も同様の様子。
だからだろうか、スーパーの籠に鰆のお刺身は入れられない。
鰆と言えば弁当のおかずとか、鯖よりも少し上品なお味で味噌漬けにして頂くとかなんだよなぁ、自分的には。
ゴメンナサイね、さわらさま。
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それゆえ、今日のオススメとして並んでいても、どうしても気が進まない。
したがって、わが家の食卓にはアジ、生かつお、鰹たたき、しめ鯖、鰹、アジみたいな順番で並ぶ。
必殺、お刺身を買いにいってもワンパターンになっていた。
時に、稚内から30分、猿払のホタテ懐かしいなぁ、冷玉食べたいなぁとか思いつつ。
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とある地元電鉄系のスーパーの店員さんのBlogでも最近取り上げられていた。
こんな風に。
【最近、サワラの姿(刺身・切身ですよ)が目立ちます。魚に春で、鰆なのですがやはり岡山では初夏の魚のイメージです。瀬戸内に魚島のできる?ころが鰆の旬でしょうか。
ということで、下津井産の鰆があったので購入しました。期待通りの美味しさで満足!まんぞく!
今年の漁獲高はどうなのか気になります~!台風の影響も心配です。魚は海の状況に左右されますので。】
しかしこれを読んでもまだ、食べたことのない刺身はやはり手が出なかった。
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ところがである。
今日の昼前、鳥取教会で、東中国教区総会が行われている最中に、教会のとある方から、携帯の留守録にこんな電話。
「もりせんせい、○○ですが、先生のお好きな刺身、さわらを持って来ました。お留守のようですので、教会の冷蔵庫に入れておきます」
うわぁーい。
鰆のお刺身だぁと心が弾んだ。
これまで買う勇気がなかった鰆ちゃんとついに向き合う日がやって来た。
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日本基督教団の東日本大震災の担当幹事の○島牧師が、人生の先輩ながら、神学校の後輩。
東中国教区総会に支援募金感謝の近況報告に来られていたので、鳥取県庁別館?9階の大食堂に昼食へ。
というか、行き掛かりでそこに辿り着いたのだが。
あっ、鳥取県庁の430円の定食。残りのC定食で十分満足。次回も生きたくなる場所となった。
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○○さんにまずは御礼を妻から伝えて貰おうと電話。
その様子を聞いておられた○島牧師。
東京暮らしのお方のため、「教会員から鰆の刺身の差入れ」がぴんとこない様子。
「刺身が届くんですかぁ?」と声が裏返った。
そう。
地方の教会の恵みはこんなところにもある。
が、牧師館暮らしをしていない○島先生には不可解な知らせの様子だった。
なるほどとあらためて思った。
ぜひ、地方の教会に足を運んでください、と○島先生には伝えた。
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鳥取教会での教区総会は16時過ぎに解散し、動き始めたのが16時半。道に迷って遠回りして、20時過ぎに牧師館に辿り着いた。
いやいや、それで遅れたのではない。
お世話になったとあるご夫妻二組に、近況報告の電話を入れたりしているうちに時間がかかったのだ。
こころにとめてくださっている様子が電話越しに伝わって来る。
ありがたい。サワラが待っていると思うといよいよ声が弾んだか。
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ルンルンとまでいかないまでも、ワクワク感がある夕飯。
写真を取り忘れてしまったが、そこには、美しく盛り付けされた、見たことのないピンク色の切り身の美しい切り身。
あぶらがのっているはずなのに少しもあぶらっぽくないお味。
夫婦揃って言った。
「うまいっ!」
それ以外の言葉がないのだなぁ、ほんとに。食べたことのないおいしさがある。焼き物の鰆とは完全に別物。
旬のもののおいしさは野菜にせよ、魚にしてもすごいなぁと思う。
北海道の秋刀魚も旬に頂くと毎日でも飽きないから不思議だが、まさにそんな感じだった。
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郷に入っては郷に従うは、み言葉で言うとどうなるか直ぐに思いつかないが、やはり、岡山のものをその季節に頂くことが、岡山の人になっていく為の近道だろう。
鳥取の空気もなんともゆるくてよかった。県庁が立ち、JR鳥取駅が直ぐそばにある所とは思えないようなのどかさ。
じわりじわり。ここでの日々が「暮らし」になり始めている。
妻はこれからは鰆のお刺身を「ぴんくちゃん」と呼ぶそうだ。
鳥取のスーパーにはたぶん鰆は少ないのでは、と思う今宵なのである。end
2015年
5月
13日
水
幾人か居られる恩師の中のお一人のO牧師。もう隠退されてから20年近くが過ぎているはず。
隠退後にまとめられた本の片隅に、忘れられないこんな言葉がある。
本の中に収められているのは折々の言葉や神学論部に近いものもあるが、これは説教についての解説の言葉だ。
【1967年から1972年までの○○教会季刊誌、"枝"に掲載した説教の中から抜粋したもので、34歳から39歳まで、30代後半のものです。こうしてまとめてみて、未熟ではあるが、この頃に自分の説教のスタイルが出来てきたことを改めて感じました。】
とある。
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「俺は晩成型か」と少し前にこのBlogで記したわたし。
神学校他でO先生が語られたこと、記されたことは、今でも時々読み直したり、思いめぐらすことがある。
実は、上にご紹介した言葉を、本を開いて確認したくなったやり取りが先日の日曜日にあった。
わたしが礼拝で語った説教をきっかけに、礼拝後に立ち話をしながら語ってくださる方が居られたからだ。いやいや、近くのうどん屋さんでの昼食時も斜め向かいに座っておられて、その続きを語ってくださった。
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O先生は【この頃に自分の説教のスタイルが出来てきた】と書かれているが、何とそれは、30代後半とあるではないか。
おいおい。先生はもうその頃、み言葉を語るということにおいて一つの到達点に達していたとは。
あらためて読んで見て驚いた。
1960年生まれのわたし。今年55歳になる。
まだまだあっちにフラフラ、こっちにふらふらしながら変わりつつあるなぁと感じる。
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説教に関わる言葉とはこういうものだった。
「先生の説教は○○○○○。」「○○がいい。」と。
更に加えて、「ほんとうに先生がそう考えていることを語っているのが分かる。」とも言われたと思う。
二番目の○○という言葉は、わたしの牧師人生の中で、三回目=三人目に聞く言葉だった。なるほど、この方もそう感じて下さったのか、と思った。努力していることでもあったので嬉しい。
だが、ひとつ目の○○○○○は初めてのほめ言葉だったし、「ほんとうに先生がそう考えていることを語っているのが分かる」というのも、思いがけない指摘だった。
これも有り難いこと。重ねて感謝だった。
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牧師の転任。
これは、考えて見ると別れ道であり分岐路である。
いやいや、それどころか、人生いつもちいさな選択と決断の連続だから別れ道とも言える。
これまでの経験や積み重ねを抜きにみ言葉を語る、ということは有り得ないけれど、新たな会衆との関係性の中で、言葉は紡ぎ出されるのだなぁと明確に知った。
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阪神淡路大震災のただ中を生き抜かれた牧師の講演を10年近く前に聴く機会を頂いたことがある。震災直後から語り続けられた説教集も確か出版されていた。
その頃のわたしはほんとうに驚いた。
「十分な準備の時間など有り得ないのに、いったいどうして、説教を語り続けることが出来たのだろうか」と驚愕したのだった。自分にはとても無理だと感じた。
けれども、今の自分は少しだけかも知れないが成長できたのかも知れない。
緊急事態が起こり、大混乱に遭遇しても、聖書というテキストと、今生かされている文脈=コンテキストを紡ぎあわせながら、自分なりに何かを読み取り、語ることが出来るかも知れない、とボンヤリしたものを感じられるようになった。
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妻は何かの折りに、「だから、わたしが言っとぅやろ。毎日が説教やけん」(博多弁です)とわたしに話した。
それは一度だけのことでは無い。
何度かそう語った、というのが正しい。
「毎日が説教やけん」を解説するのは難しいれど、説教に通ずる出来事が、われわれの平凡な日常の中に毎日起こり続けている、ということがそこには含まれているのだろう。
説教のよき聴き手である妻の言わんとすることは分かるような気がする。
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おそらく、わたしの説教のスタイルはこれからも変わり続けるだろう。
み言葉によって新しくされ続けることは、わたし自身の楽しみなのだと思う。
「一番恵まれるのは、説教を語り続けることに仕えさせて頂いている牧師」とは、妻に洗礼を授けて下さり、いつもわたしたち夫婦を心に掛けてくださった今は天国に居られるI先生の言葉だが、本当にそう思う。
幸せな務めをあたりまえのことと考えず、しっかりとした努力を続けたい。み言葉を取り次がせて頂く場に生きること、それは何と光栄なことだろうか。end
2015年
5月
05日
火
岡山暮らしが始まって一ヶ月。
「転任しました」の挨拶状を送ってきてくれた友人にきょうは電話をした。
電話越しに「転任してよかったです。発作も治まってますし・・・」とMさん。
続いて関東であらたに頑張っているTさんに電話。
彼は「妻がパートに出始めました。月、水、金なんですが・・・」と語った。
「それじゃ、牧師の休日に奥さん孝行できんじゃないか」と伝えはしたものの、事情があってそうなっているのだから、こちらが余計なことも言えない。
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「デンワイソゲ、思いたったら吉日」ということがわたしの場合多い。
特に、仲間や先輩への電話は思いたったらあれこれ考えずにするに限る。
わたしは私で「美樹さんも元気になってきたよ。そして、旭東教会のホームページを見てね・・・」と伝える。
近況を伝えるには、今はそれが一番だ。
このBlogのアップロードが出来ず更新が滞っていても、教会の方のホームページはコツコツ動いてますので、どうぞ、そちらに寄って下さいませ。
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さて。
50年前の人たちと今の人たち。歳のとり方が変わった、と言うのは本当かも知れないなと思う。
少なくとも、半世紀前の日本人と今を比較すると、10歳は若く見えるのではなかろうか。
1960年、昭和で言えば35年生まれの私自身、今年55歳ではあるけれど、実のところ、半世紀前の世界にタイムスリップしたら、やっぱり45歳位の方たちと同じくらいの成熟度かも知れないなぁと思う。
父の世代やその前は定年は55歳。60ともなれば、明治生まれの祖父の時代は確実に風格あるおじいさんだったはずだ。
ある友人が、【先日私も、とうとう還暦を迎えました。こんなんで60歳でいいのだろうかと 自己嫌悪に陥りますが・・。】とメールに記してくれていた。
が、彼女の歳は、ほぼ私と一緒くらい、と思い込んでいたので、やはり、わたしたちが子どもの時代と較べれば、10歳は若く生きることが出来るようになったのだ、と感じる。
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妻は北海道に暮らしていた3月まで、家の中で過ごすことが多かったのにもかかわらずなのだが、実は彼女、シモヤケで困っていた。気ままフォトに、それゆえの真っ赤な靴下姿が映っている写真もある。
そのシモヤケが、治り始めているらしい。さすが岡山というのか。
わたしの方も、冬はひび割れするものと諦めていたかなり激しいかかとのひび割れが、久しぶりに眺めてみたら、やはりほぼ治っている。
やっぱり、岡山はあたたかいのだ。
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日曜日の夜、わが家で「ほぅーっ」と思う変化の知らせが妻からあった。
妻は「わたしーーぃっ、なーんかぁ、最近、センセイの説教よーくわかるっちゃんねぇー」(博多弁です、妻はわたしをセンセイと呼ぶ)とつぶやいたのだ。
この言葉にはあれこれ"裏"がある。
物理的に説教を聴けない状況にあった一年。
そしてまた、心のコンディションがあまりに悪くて、夫の、あるいは、牧師のメッセージの録音を聴くどころではなかったという事情もある。何より夫の説教のレベルが低かったか。
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そしてまた、彼女の恩師の説教がかっきり20分でおわっていた影響があるからか、元気な時でも、説教が一定の時間を過ぎると、何かがぷちんと音を立てて切れる、ということも時々も聞いていた。
ま、これはもっともなことで、誰であれ20分以上、一定の緊張感を保って人の話を聴き続けるのは、たぶん、無理だろう。
説教に限らずだが、聞いているようで聞いていないということは、元気な人でもいつでも起こっていることだと思う。
わが教会の熱心な信徒さんの幾人かの方が、礼拝に出席し背筋を伸ばして真剣に説教を聴いて居られたはずなのに、「礼拝メッセージBlog・西大寺の風」を一週間以内に聞き直している、というようなことが伝わって来たことも無関係ではないと思う。
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話は妻の「わたしーーぃっ、なーんかぁ、最近、センセイの説教よーくわかるっちゃんねぇー」に戻ろう。
これにはまた、別の角度からのメッセージがあるようにも感じる。
単純に言えば、説教が分かりやすくなったよ、と言うことである可能性も、ちょびっとはありそうだ。嬉しい。
そしてまたもう一つ。
妻のこころの状態が、ゴロゴロした石地や茨のトゲもなく、柔らかな状態になってきたということもあるのかも知れない。よかった良かった。福音である。
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「わたしー、まだ、リハビリ中やけん」
妻はそう言うことがある。
そうなのだと思いつつ、 冒頭に記した、Mさんの言葉「転任してよかったです。発作も治まってますし・・・」の前にこうあっことを思い出した。
「医者もこう言ってました。環境が変わればよくなる・・・」。
正にそのとおり。かつての僕もそうだった。
そのような助言をしてくれる、スーパーバイザーが、僕ら凡人にはどうしても必要なのだ、とあらためて思うのだ。end