2015年
9月
29日
火
夏休みを頂き久しぶりに九州へ向かった。
北海道・稚内での暮らしの間、妻は帰れても、4000キロ程の距離はやはり遠かった。
稚内からだと札幌まででも、バス、JR、自家用車を使うと札幌まで概ね6時間。飛行機は40分の搭乗時間ではあったがお財布に厳しい。
その6時間を考えると、妻の実家の福岡までは羽田乗り継ぎか、札幌乗り継ぎかを利用すると搭乗時間は4時間。
稚内は空港まで車で20分以内、福岡空港も降りてから1時間以内で、掛かる時間は短かった。東京⇔稚内は2時間だから、なんとも不思議な距離感というか時間の掛かり方だ。
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さて、自動車大好きなわたし。今回も多少疲れても運転したいと思ってハンドルを握った。
九州入りの前に一つのお楽しみがあって湯本温泉に泊まった。以前宿泊して温泉街の真ん中にある宿が目に止まり、機会があったら、あそこに行ってみたいねぇ、と話していた宿に泊まった。
結論は〈はなまるの宿〉だった。値段は標準より少しだけ高いかも知れないけれど、それも少しだけのことだ。
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偶然、ある方が、「あの宿は日本一です。あそこに行ったら、もう他に行く必要ない」と言い切ったのだが、実は、それに近い思いを抱いて宿を出た。
もっと正確に言うならば、宿を出ようとするとき、ひと言、御礼と質問をしてみたかったので、玄関に立って車を送りだしてくれていた着物を着たお嬢さんに言った。
「行き届いた心配りで感動しました。教育されているのは一体誰なの?」と。
「女将(おかみ)です」と即答。
そして、「あいにく、今、女将は別館に行っております」と言われたあと、彼女が振り向いた先に女将が居られた。
にこやかな笑顔で近づいて来た女将に、「あまりに素晴らしいので、鬼が出てくるかと思いました」と伝えると「鬼でございます」とほほ笑まれた。
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萩焼が目的というわけではなかったのだが、その後、福岡には直行せず、途中、心地よい思い出のある萩市にも出掛けようと言うことになった。
かつて、傷つき破れた心と体の状態の時、優しく受けとめてくれた空気はかわらなかった。そして、振り返ってみると、萩は品格がある町なのだ。凄いなと思う。
歴史をしっかり学び切れていないけれど、明らかに品格がある。風格とは違う。歴史というものは凄いなぁと教えられた。
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萩の歴史的な地域は幾つかの焼き物店がある。
ぶらぶらと歩いているうちに、青色の珈琲カップとお皿のセットも置いてあるお店にひとりぶらっと入り一目惚れしてしまった。ささやかだが、2千円の買い物となった。
奥から出てこられた女性に「何だか、気分がいい作りですね、こちらは。いろんな先生の作品を置いているのですか」と話しかけた。
「ありがとうございます。一ヶ月前に開店したばかりなんです。夫が焼いたものだけを置いているんですが、この辺りにずっと店を構えたいと思って探していました。一年間からお店をと思って動き始めたのですが、さまざまな規制があって土を掘り起こしたり・・・・・・」との話だった。
引き続き、がんばってほしいなぁと自然に思った。
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もうひとつのお店でもあれこれお話聴いた。いや、一見の客でも、長年萩焼一筋で歩んで来られたお店の方が、気軽に話をしてくれたとも言える。
そのお店の奥には「一期一会」という大きな額文字が飾られていた。本当にそうだなと思った。器だけでなく人もである。
ここ数年、わたしは色んな場で声掛けすることが多くなった。それが平気になった。
厚かましくなったのは歳のせいだろうか。
いやいや、教会での出会いの数に比例し話し好きな人になって来たようにも思う。
大も小もある。破片のような出会いと語らいもある。
それは「人生という名の旅路」の、とても奥深く、楽しく、幸せなことであり、神さまからの贈り物と思えてならない。end
※旭東教会『週報』コラム「窓」に加筆しているものです。
2015年
9月
23日
水
2015年9月23日(水) № 200 『 牧師館ラジオ事情 』
※記念すべき200号だと気付いた。我ながらよく続いたもの。さかのぼれば新潟に居た頃から始まっている。今号から、旭東教会の「週報コラム・窓」の加筆版はこちらにあげます。だいぶ自由に加筆できるかな。
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TVを持たない我が家はラジオを聴くことが多い。
これはTVを観ませんという主義というのではない。あの小さな携帯電話でサッカーのW杯の予選を観ていることも、たまーにある。
ただし、基本的にはTV抜きの生活。で、きょうの話題はラジオである。
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岡山はなのか、西大寺はなのか、意外に電波がうまく入らない。この辺りでは高層の部類のマンションが邪魔しているのだろうか。周波数のキャッチはデリケートだと思う。
デジタルのラジオではないので、あれこれ周波数を合わせるのだが、岡山は交通の要衝なのと同様に、各地の電波が飛び込んでくる。広島からの電波は今のところ届いていないが、香川県からも当然届く。
そして、時間帯によっては関西の放送を楽しむことが多い。というか、NHKラジオですら、岡山かと思って聴いていると、「大阪からお伝えします」となってしまう。
ある意味無意味なのだが、関西の道路情報が聞こえて来るのも気分転換になるから不思議だ。
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民放を聴いていると吉本の芸人さんも登場するし、今まで、名前も存在も知らなかった方の番組も楽しかったりする。
パーソナリティーの賜物が豊かなのは間違いない。
こちらの地元FM局の、誰の声を聴いてもさして変わらないように感じてしまう方たちと較べると気の毒だが、個の力が全く違う。
CMもユニークだ。直球的な広告も意外に多いし、え、こんな方がという好感度の高そうな俳優さんがCMのキャラクターとして登場するのも不思議でおかしい。
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夕飯の頃、一番リラックスするのはプロ野球だ。
北海道ではファイターズだったのがタイガースびいきになりつつある。あ、広島も決して嫌いではないことも申し添えないといけない。
黒田投手の登板は気になってしょうがない。
プロ3年目の藤波君の登場ともなれば応援の声が大きくなるのだが、肝心な時に弱い阪神にも惹(ひ)かれる。本当に阪神は不思議なチームだ。
かつて、牧会していた教会で文集を毎年出し続けていたのだが、あるご婦人の投稿が今でも忘れられない。
わたしのPC内を検索すると残っていたので、差し障りはなさそうなので抜粋してみた。名文だ、と今読んでも思う。絵が思い浮かぶのだ。
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・・・気がついたら夫の阪神タイガース熱に感染していた。今やタイガース戦がテレビで放映される日は、朝からテレビ放映に合わせて生活するようになっている。
放映が始まるまでに夕食を作り終え、時間になると同時に、テレビの前に陣取る。
夫の仕事の関係で、一緒に夕食をとれるのは日曜日だけだが、タイガースの試合を見ていると、ひとりの食事も寂しくない。
日曜日には、二人そろってタイガースの法被を着て食事をしながら、試合観戦をする。必要な時に使えるように、メガホンと応援バットも傍らに置いとく。7回戦裏の風船飛ばしを球場の観衆と共にしたくて、大阪に住んでいる娘に送ってもらった風船も欠かせない。時に、試合の感想を娘達と、メールで送りあう。
勝利試合の後に、「六甲下ろし」をテレビに映る応援団と一緒に歌い、ヒーローインタュー、監督インタビューを見るのも楽しみだ。その夜は、スポーツ番組を片端から見まくり、タイガースの戦いぶりに酔いしれる。
負けたときは、「今日は考えがあって、わざと負けたのだ」と慰めあう。
タイガースを、家族一丸となって愛する我が家には、夫婦・親子の会話が絶えることはない。試合、選手、監督、応援団、OB、タイガースグッズ、ホームページ・・・・と話はつきない。
阪神タイガースは、私達の生き甲斐・潤滑油。 ありがとう、阪神タイガース!
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阪神戦は大阪の朝日放送を聴いていることが多い。
1985年に日本一の監督になった吉田義男さんの解説はとりわけ心が和む。これは夫婦一致しての感じ方だ。
酸いも甘いも知り尽くした経験と80歳を超えられての円熟だろうか。語り口にあたたかさがあり教えられている。
あー、こんな方が牧師だったら相談に行きたいなぁ、と思わせるのだから。end
2015年
9月
08日
火
『 旭東教会 牧師室便り』
2015年9月6日 4号
ぶどうと桃がおいしいですよ。そうは聞いていたが、実際、見てびっくり・食べてビックリが続いた夏だった。
葡萄はまだまだこれからが本番らしいが、衝撃とも言えるくらいの大きさや美味しさは本当だ。
昨年の夏までは、お盆過ぎになると急激に値崩れをし始める北海道のメロン半分を妻と二人、数百円で買ってきてはニコニコしていたのだが、土地が変わればというのは本当だ。
北海道では9月1日が秋鮭漁の解禁日だった。浜頓別を抜けて歌登の家庭集会に向かう途中、釣り人達がズラーッと棹をオホーツク海に並べテントを張っていたものだ。
岡山ではこれからどのような地の産物、海の産物に出会うことになるのだろう。
とは言え、少しばかり、北の産物が懐かしいと口にしていたら、応援団からホタテ、ウニ、蟹、ほっけ等など、見つくろって送ってきて下さった。(嬉)
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8月30日の『週報』表紙、《窓》の欄に、松山教会での研修出張の時に訪ねた道後温泉、そして、その真ん前にあるアーケード街のことを記した。
教会のホームページにはその増補版をいつもアップしている。
夜のアーケードなんてもの、大分の田舎の(遠浅の)浜辺の村に暮らしていた子どもには無縁・未知のものだった。
月か星の輝き位しか知らない私だった、と言うとオーバーかも知れないけれど、でもそう遠くはないと思う。
だから、ちびっ子だった頃の松山の夜は、アーケードがよほど眩しく見えたのかも知れない。
そして、今は亡き家族との何かを確認出来た幸いな時となった。嬉しかった。
亡き父も松高を卒業したと言う縁がある土地なのだった。
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松山教会が会場ということで、現在の主任牧師・上林(かんばやし)順一郎先生にお目に掛かれるのを楽しみにしていた。
75歳になられ、来春には隠退とお聴きしている上林先生。
東京の早稲田教会の牧師を長年務められたあと、群馬県の教会を経て、5年前から松山教会の牧師をされている。
上林先生は11月22日の特別集会にお招きする関田寛雄先生の後任として、私の母校日本聖書神学校や聖公会神学院で「説教学」を教えておられる。
確か、現在も神学校での講義のために飛行機で通勤されているはず。
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私自身は関田先生の教え子のひとりなので、上林先生に教えて頂いたことはない。
だが、今回、持参し記念に署名して頂いた先生の本『なろうとして、なれない時』(現代教養文庫・1989年)を帰宅後読み直したところ、感慨深いものを胸に抱くことになった。
先生の説教は礼拝にも出席したことがないので、ライブでは一度もない。ただ、キリスト新聞社から発行されている季刊誌の付録のDVDで前橋教会で説教されている様子を見ることが出来た。
そして、説教をめぐるインタビューを受けているのに触れた。
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なぜ松山に出掛けて、感慨のようなものを胸に抱くことになったのか。
何も、上林順一郎という方に会えたからではない。
わたし自身が、上林先生の説教から色んなことを学ぼうとしていていた時代があったことを、本をパラパラと読み進めるにつれて思い出したからだった。
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本の題名ではないが、先生を真似ようにも「なれない」ことばかりであることは分かっている。
だが、何であれ、倣いたいと思うような方の存在は本当に有難いなぁと思った次第だ。
どんなところを学ぼうとしていたのか。
今は内緒にしておこうかなぁと思う。まっ、たいしたことではないのだけど(笑)ご機嫌ようend