2014年

2月

28日

2014年2月28(金) №120 『 正月に “小朝”が「深夜便」で語ったことをきっかけに 』

 

今年のお正月。三が日が終わった頃の深夜、NHKラジオの「ラジオ深夜便」を聴いていた。この時間を楽しみにしている人は多い。

 

その日、「オトナの生き方」に登場したのは、落語家の春風亭小朝だった。

 

小朝さん、というべきかも知れないが。

 

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わたしが25歳頃だろうか。

 

ということは、もう28年も前になるが、東京・日本橋の天麩羅の名店(だと思う)「てん茂(も)」に友人と出かけた。昼ご飯の時間だ。値段的に、昼じゃないと無理だったのだと思う。

 

その頃、『週刊文春』で、とある料理家が紹介するお店をしばしば訪ねてみる、という道楽をしていた。

 

日本橋三越の向かいの裏手の方だったと思うが「てん茂(も)」に入ったその日、幾つもないカウンターの席には、内弟子らしき二人を連れた小朝さんが居た。若くして二つ目から真打ちとなり、飛ぶ鳥を落とす勢いの小朝さん、という頃だろうか。

 

ちなみに、今でも一番好きな天麩羅屋は、お茶の水の“山の上ホテル”の天麩羅のお店“山の上”だ。程ほど広くて居心地が良い。狭いと、店主と何かしら勝負するような雰囲気になってしまって、息苦しくなる。

 

「てん茂(も)」さん。味は確かだけど、背筋を伸ばさないといかんかな、という気持ちになる親父さんがその頃は独り天麩羅を揚げておられた。左右にこれまた弟子らしき人を立たせてだ。

 

その三人のたたずまいに、こちらは興味津々だった。

 

『文春』の記事に書かれているとおり、「さいごは、天茶でお願いします」等と、知ったかぶりもしたことが懐かしい。

 

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話は元に戻る。

 

小朝さん。「ラジオ深夜便」でなかなか面白いというか、そうかぁ、と思うことを口にした。メモもないし、録音などしていない。アーカイブで改めて聞き直したわけでもない。

 

だから、全くもって正確ではないけれど、心に記録されていることを思い出してみたい。身勝手な記憶程度のものに過ぎないが。

 

五代目・春風亭柳朝という方が、落語小僧だった小朝さんが「どうしても」と願って入門した師匠だそうだが、今頃になって、ふと師匠の言葉を思いだすことがあると言うのだった。

 

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「いいかい、よーく聴いときな。あのねぇ、落語なんてもんはー、年に何度も出来ゃしねぇんだ。だからねぇ、適当にやってりゃいいんだよ。わかったかい」

 

五代目・春風亭柳朝師匠が口にされた、その言葉の意味はどういうことか。

 

100%の力を出し尽くして落語を語ったとしても、実のところ、その100%の力での落語を、聴く方(お客さま)が準備万端整えて聴くことが出来るかと言うと、決してそんなことはない、ということだろう、とわたしは思った。

 

これ、新宿の末広亭にせよ、上野鈴本であれ、浅草演芸ホールの高座、はたまた独演会や何人かで行う地方巡業のような「席」でも同じだろう。

 

むしろ、6割位の力で、サラーッと噺をする。落語ってのはそういうもの。

 

柳朝師匠は、まだ二つ目にもならないような小朝さんに、なにかの時にそんなことを話していたようだ。

 

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落語の世界のリーダーのひとりとして、笑福亭鶴瓶や立川志の輔らと共に、落語会をショって立つ自覚を持つ年代に入ってきた小朝さん。

 

入門してから40年位が経ち、師匠が語っていた言葉の重みを、いろんな形で実感し始めている、という意味のことを言っていたと思う。

 

お弟子さんや広い意味での落語の世界に生きる後輩たちに、そろそろわたしらも伝えていかなきゃ、と思い始めていることの一端。

 

わたしはそう受けとめた。

 

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確かに高座の場合、聴く方は見も知らない者同士が、肩を寄せ合ったりして時間を共有するのが普通だ。

 

もちろん、ガラガラのホールに、離ればなれ。海の孤島のように、好き勝手に身を置くということだってあるだろう。

 

気分が乗らないまま、贔屓(ひいき)の落語家の出番だけを待つ客もいる。

 

となれば、目の前に現れた噺家の噺に、気が乗らないことだってままあるはずだ。

 

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30代の頃。

 

説教をするとき、語り終えたら倒れても構わない、というような気持ちで力まかせで講壇に立っていた時期がある。

 

ところが、こちらが力んで、力いっぱいに語ろうと思って説教を始めると、必ずと言ってよいほど、居眠りをし始める、わたしより2歳くらい年上の教会員の方が居られた。

 

腹が立った。

 

その時には、その人にはその人の文脈があるのだということが、まだまだわかっていなかったのだ。いや、今だって出来ればいきなり眠って欲しくはない。

 

ま、語る言葉に腹を立てて聴かれるよりも、心安らかに寝ていただく方が、よいのかも知れないけれど。

 

小朝さん。思いを尽くし、準備万端であっても、いい噺を出来るとは限らないことに気づいているのだった。

 

なにがあっても変わらない位の力加減で高座にのぼる。それって、おそらく、6,7割の気分の入れ方が〈適度〉なのだろう。

 

わたしは、毎週の自分の説教のことをぼんやりと思いながら、深夜便の小朝さんと師匠のやり取りを興味深く聴いていたのだった。

 

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2月の稚内。

 

海の向こう40数キロの隣国ロシアのサハリン(旧樺太)から、ロシア民謡と舞踏のアンサンブルがやって来てくれた。今日で一ヶ月の公演が閉幕した。

 

去年に続いて舞台に立ってくれた「ルースキー・テーレム」(Русский Терем)というグループの歌と踊り。見ていてプロだなぁ、といつも感じ入るのだった。凄いなと毎回感動だった。

 

「いつも」というのは、自分が一回限りの観客ではなく(料金無料という気安さもあるからだが)、その空間と舞台が好きで、何度も出掛けていたからだ。今年もだいぶ通った。写真を撮るとわかるが、セットがまた、まばゆく輝かしく写るように考えられている。花火が上がっているような感じなのだ。

 

きらびやかな衣装と朗らかな笑顔で、ロシア民謡を場合によっては一人の男性と4名の女性による5重の音階で歌い、足を鳴らして踊る彼ら。

 

また、見慣れぬパーカッションを手にして絶妙のハーモニーで歌う彼ら。

 

そして、絶妙のタイミングで入れられる舞台の仲間たちによる合いの手。

 

観客が席の半分に満たないこともしばしばなのに、見事なまでに、いつでも普通に歌い踊りきる。それは、彼らにとって当然のことなのかも知れないが、見事だなと思う。

 

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かなり動きのある踊り、そして、踊りとセットとなった歌も多い。

 

なので、“適当”にするなんてことは不可能なのかも知れないが、準備し、プログラムしている12曲、いや、17時と18時の2公演だから、全24曲を見事に歌い上げ、踊り終える。

 

相当厳しい練習を重ねなければ、無理だろうと思える踊りが幾曲もある。その中身からして、淡々ということはあり得ない舞台だろう。

 

しかし、彼ら全員が、幸せそうに、喜びながら舞台に立つ。注意深く舞台を見守っていると微妙に表情を変えることはあるが、基本、「いつもその日が最善」という顔でそこに居続けてくれた。

 

歌手の一人、ベテランのワレーリアRさんの言葉が「わたしたちの公演を喜んで下さる日本の聴衆のために歌うとき、わたしはいつも感動と喜びを覚えています」とプログラム用紙に記されている。

 

まさに、彼ら自身の感動と喜び。それが伝わって来るステージには感動を覚えるばかりだった。時に滅入りそうになる厳しい稚内の冬を乗り切る元気を貰えた。

 

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お正月は名人の落語談義で始まり、2月はプロの神髄を感じさせるロシアアンサンブルの舞台で終わる。

 

それと並べるのはおこがましいが、わたしの毎週日曜日の礼拝説教。

 

全く違うもののようでありながら、確かに、つながり合っている何かを感じずにはおられない。

 

落語が落語になるのは、やはり、ラジオのマイクの前でというのではなく、客席の皆さんと共にある空間というか、時間が在ってこそだろう。

 

ロシアアンサンブルの民謡と踊りも然り。

 

そして、礼拝説教もまた、会衆が居てこそ、聖書の話がお話ではなく、出来事としての説教の言(ことば)になる。

 

まだまだ未熟を自覚しつつ、なお、力みはないのに最善であり、活きたみ言葉を語る説教を心して語り続けたい、とふと思うのだった。明日から3月。end

 

2014年

2月

25日

2014年2月25(火) №119 『 最北通信 稚内教会 牧師室便り 23号 増補改訂版 』

 

※今号、気絶するほどではないにせよ、長いです。お忙しい方、どうぞ、PASSして下さい。遠慮なく。ハイ。

 

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吹雪。

 

その恐さが身にしみて分かるようになった今年の冬だった。

 

昨年11月の自動車の自損スリップ事故で、だいぶ用心深く過ごした冬だった。急発進、急ハンドルはほぼ完璧にしなくなった。

 

春の兆しは見えて来たけれど、きっと荒れる日もまだまだあるだろうから、油断はできない。そして、路面の雪解け水が、早朝に凍り付くことも多いので、それもまた要注意だ。


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九州で育ったわたしたち夫婦。時々、車に乗っていて交わした言葉がある。

 

「昔の人たち、たいへんだっただろうねぇ」と。

 

例えば、私が生まれた昭和35年・1960年頃。つまり半世紀ほど前。ブルドーザーやショベルカー他、大型の除雪用重機は限られていた時代だ。教会や幼稚園の庭は愚か、国道や北海道や稚内市が管理する道路すら、除雪車はほとんど無かっただろう。

 

寒さだって、今と変わらないか、それ以上だろう。

 

「昔は、あたたかくてよかった」なんて声は誰からも聞いたことはない。

 

一体皆さん、どんな風に冬を乗り越えて居られたのか、と考えてしまうことがある。安全のためには、努めて移動を少なくし、保存食を倹(つま)しく食して過ごしていたのだろうか。

 

だから、ニシン漬けが美味しい文化があったり、ホッケの干物が素晴らしく旨い、ということにもなるのかも知れない。

 

吹雪く時には決して無理をせず、自然の変化に合わせて過ごしていたのか。言い換えれば、ひたすら忍耐して待ち続けていた、ということだろう。

 

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一人のきょうだいを天に送った。

 

覚悟していたこととは言え、ご遺族にとってはもちろん、小さな家族的な交わりをたいせつにしている小規模教会の我々にとって、悲しみが雪のように降り積もる感がある。

 

A兄が1月26日に77歳で召天された。

 

A兄は2012年のクリスマスに療養中のご自宅で洗礼を受けた方だった。稚内教会としても久しぶりの受洗者だった。牧師の私からすると、稚内教会で最初に洗礼を授けた、決して忘れられない方でもある。

 

2012年4月。赴任して間もない日曜日の夕方、お宅におじゃまして、にぎり寿司をつまみながらお話をするようになり、訪問がとても楽しみな時間となっていった。

 

「雑談」が「入門講座」に変わり、やがて「受洗準備講座」となった。

 

思い出はうつくしすぎて、とはよく言われることだが、ひとこまひとこまが懐かしく、あたたかい。

 

神さまの備えられた「ご計画」と「時」がそこにあったことを思う。

 

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A兄の洗礼式の時に読んだ聖書。それは、ヨハネ福音書3章だった。そこには、イエスさまと年老いたユダヤ人議員のニコデモの出会いの場面が描かれている。

 

イエスによる【だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない】(3:8)の言葉を聞いたニコデモは、背を向けて去って行った。

 

しかし、A兄は違った。水と霊とによって新しく生まれ変わり、与えられたそのいのちを輝かせながら生き抜かれ、天に帰って行かれたのだった。

 

わたしはそう信じる。

 

そして、共に歩ませていただいた、信仰の共同体は様々な感化を受け、恵まれた。

 

「キリストが影のようにいつも共に」という恵みの証しに、心新たにされたのは、A兄だけでなく、教会の皆だったのだ。

 

感謝だなと思う。

 

そして、主イエス・キリストにある慰めが、お連れ合いのT姉を始め、息子さんたち、近親の方々お一人おひとり上にあるように、と教会の皆で祈っている。

 

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北海教区にやって来て、「目から鱗」ということが色々とある。

 

そのうちの一つかも知れないが、北海教区名物とも言える、教区の年頭修養会が1月13日(月)~14日(火)に旭川のロワジールホテルを会場に行われた。

 

道北地区が当番となり、1年半近くを掛けて準備して来た会だった。パソコンによる電話(Skype)会議も幾度も行った。何しろ、稚内と旭川は最短で4時間の距離。名寄でも3時間弱かかる。

 

そういう点では、最先端のPC機能は、この道北という地域でとても有効だった。もちろん、顔を合わせて、コミュニケーションをとるに越したことはないが。

 

主催する側として、一番の心配は、真面目に、大雪だった。

 

交通機関が混乱してはどうにもならない。大阪からのメインの講師、子ども年修の東京からの先生と、飛行機が飛ばない場合は・・・と事務局では真面目に代案を考えたりしていたのだった。

 

真の意味で盛会。

 

わたしはそう感じているが、道北地区の仲間たちとの振り返りの時間に、自分でこう語ったことをはっきりと覚えている。

 

「道北地区は、大物の誰かを呼んできて安易に済ませるのではなく、今の自分たちの課題と真っ正面から向き合った。その営みこそが一番貴いことだったと思う」と。

 

信徒も牧師も合わせ、多くの仲間たちとの連帯がグッと深まったことも大きな収穫だ。

 

事務局長を務めてくれた韓守賢先生(ハンスヒョン・旭川豊岡教会)が、年末の夜中の12時頃迄の会議で見せた気迫の顔が忘れられない。先だっての振り返りの会議の時は、別人の穏やかさだった。

 

「Amazonの買物がストレスで増えた!請求が怖い」という韓先生の言葉に、みんな、笑顔でうなずいていた。

 

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主題講演をお願いしたのは、大阪からお出で下さった金香百合(キム カユリ)さんだった。

 

わたしは10年以上前に出会って、本物を実感。

 

この度の修養会の講師を誰にするかで行き詰まった時に、私から推薦させて頂いた方だった。

 

お招きして多くの方たちから、「よかった、たのしかった、素晴らしかった」の声が修養会の実行委員会のメンバーの元に様々な形で届いている、という。

 

しかし、参加者がそこで得たものをフィードバックすることは、実は、簡単ではない。それだけ、実は、本質的な何かを包含している講演だったと思う。

 

金香百合さんから、改めて始めて見なさいと促されたのは「笑顔」だった。

 

金(キム)さんは、みんなのためにそのボールを投げて下さった。

 

参加していた愛する友人牧師は「金先生のメッセージを頂き、帰宅すると妻に必要以上に「ありがとう」と言ってた(本当に)。しかし三日で断念(笑)」と伝えて来た。

 

他にも、「帰ったら、夫に謝らなきゃ」とか、「子どもに、ごめんね」と言った等、知り合いだけでも幾人か居たのだった。それ程、あれこれ気づかせてくれた講演だった。

 

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金さんはキリスト者だけれど、浄土真宗の大切な経典にある「和(わ)顔(がん)愛(あい)語(ご)」という言葉を講演の中で紹介された。

 

いや、実際はその言葉というよりも、テーブルごとの出会いの場で、笑顔で、心から向き合う人のことば、心に聴く姿勢について考えさせて下さった。

 

「和願愛語」とは文字通り「和らぎの顔、いたわりの言葉」を大切にし、いつも穏やかな顔でいれば、心も穏やかになって、心が優しくなること。

 

が、肝心なことがある。

 

実はこの言葉、昨年の11月、金香百合(キムカユリ)さんが看取(みと)られた最愛のお母さまとの貴い最期の日々に、金さんの実生活の中で与えられたものだったのだ。そのことを、わたしはナイトプログラムに参加していて知った。

 

つまり、勉強や教養としての言葉ではなく、お母さまとの掛け替えのない最期の日々に、深く心に落ちてきた言葉だったのだ。

 

今、私も“笑い皺(じわ)”を一本でも増やしたいと願って、努力を始めている。かつて幼稚園の園長として仕えていた頃、笑顔を努力してつくることを実践し始めたことがあったが、今はまた、違う文脈でそうありたいと願う。

 

「泣いて暮らすも一日、笑うて暮らすも一日、同じ一日なら笑うて暮らさにゃ損たい」(『人生は55歳からおもしろいねん』・今井美沙子著・岩波書店の中の、今井さんの故郷、長崎県対馬のお母さまの言葉)

 

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「和(わ)顔(がん)愛(あい)語(ご)」に関連して、面白いことを知った。

 

宝塚歌劇団がらみの話である。

 

宝塚歌劇団の壁には、『ブス25箇条』なるものが貼り出されているというのだ。劇団四季の元団員の友は居るが、宝塚はお友だちゼロ。しかし、どうも有名な話らしい。

 

『ブス25箇条』の一番バッターが「笑顔がない」なのだが。

 

ちなみに、25箇条は以下の通り。


1)笑顔がない。
2)お礼を言わない。
3)おいしいと言わない。
4)精気がない。
5)自信がない。
6)愚痴をこぼす。
7)希望や信念がない。
8)いつも周囲が悪いと思っている。
9)自分がブスであることを知らない。
10)声が小さくいじけている。
11)なんでもないことに傷つく。
12)他人に嫉妬する。
13)目が輝いていない。
14)いつも口がへの字の形をしている。
15)責任転嫁がうまい。
16)他人をうらやむ。
17)悲観的に物事を考える。
18)問題意識を持っていない。
19)他人につくさない。
20)他人を信じない。
21)人生においても仕事においても意欲がない。
22)謙虚さがなく傲慢である。
23)人のアドバイスや忠告を受け入れない。
24)自分がもっとも正しいと信じ込んでいる。
25)存在自体が周囲を暗くする。

 

「いつも口がへの字の形をしている」にはドキッとする。忘れちゃいけないのは「笑顔」が最初に掲げられている事だろうか。

 

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インフルエンザが稚内でも流行(はや)っていた2月9日(日)明けの月曜日。嬉しいメールが遠方から届いた。

 

稚内教会が昨年の9月から始めた礼拝のライブ配信が、札幌と東京のクリスチャンのお役に立っていたことがわかったのだ。

 

これ、録画の視聴ではなく、生中継への反応だ。

 

一人は元・稚内教会の会員で札幌市在住のI姉だった。ご自宅で静養中にふと稚内の取り組みを思い出されたとの事。

 

もうお一人の方は面識はないがこのような丁寧なメールをくださった。

 

「東京都〇〇市にあります日本基督教団〇〇教会の〇と申します。思いがけず生まれて初めてインフルエンザにかかり、礼拝に出席出来なくなりました。それでどうしたものかと思い、ネットで調べ、御教会の礼拝に自宅から出席させていただきました。・・・・・お働きのうえに、聖霊の祝福とお力づけが豊かにありますようお祈りいたします。今日はどうもありがとうございました。」

 

という内容だった。

 

この方、稚内教会が行っている、利尻昆布バザーの品を購入して下さっている教会の方と知り、重ね重ね感謝だった。嬉しいことだと素直に思う。

 

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雪と氷、そして吹雪に見舞われる2月の稚内。

 

数年前からの恒例となっているという、サハリンからのロシア民謡と舞踏(ぶとう)のアンサンブル「ルースキー・テーレム」というグループの舞台を楽しんでいる。

 

年々、中身が良くなって来ているという評判で、わたしは去年その存在を知ったのだけど、無料で、本当に気軽に「副港市場」という施設の特設会場に出掛けては、厳冬期の気分転換をしている。

 

写真もvideoも撮って、我が家はこの季節、ロシア民謡が溢れる。ロシアの人々の大らかさが伝わって来るステージで、ほんと、恵まれていると思う。

 

彼らは観客がパラーっとしか居なくても、一切抜いたところは見せない。歌うことが楽しく、踊ることも嬉しいのだ。

 

いつも心からの笑顔の彼らは、まさに「professional・プロフェッショナル」。

 

「ハラショー・素晴らしい」「スパスィーバ・ありがとう」と大きな声で叫び、力いっぱいの心からの拍手を送り、春を待っている。end

 

 

2014年

2月

24日

2014年2月24(月) №118  『 《 こんぶ通信 4号・10㌘でも力持ちの昆布さん 》 先行配信 』

10㌘の利尻昆布を手にして説教中の筆者。北海教区年頭修養会 於;旭川ロワジールホテル 2014年1月
10㌘の利尻昆布を手にして説教中の筆者。北海教区年頭修養会 於;旭川ロワジールホテル 2014年1月

○わっかない教会  こんぶ通信  4号  2014年3月発行
『 10㌘でも力持ちの昆布さん 』(稚内教会による福音物語 その4)

 

 

『毎日新聞』創刊142年記念の特集号は今をときめく女優の「杏(あん)さん」が着物姿で大写しになっていました。2014年2月21日(金)のことです。

 

NHK朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」のヒロインを演じる杏(あん)さんをご存知の方も多いと思います。新聞では「和食」の素晴らしさの再考を促す記事が掲載されていました。

 

杏(あん)さん、ぬか漬けを楽しみ、最近はニンジンかキュウリに落ち着いているという・・・興味深い話題です。

 

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裏面は、『和食のひみつ』のタイトルのもと、京都大学教授で、食品・栄養化学の専門家・伏(ふし)木(き)亨(とおる)先生のインタビュー。

 

何と嬉しいことに、紙面で取り上げられていた写真には、浜辺に水揚げされギッシリと並んだ利尻昆布。

 

「北海道稚内市で毎年7月に漁が解禁になる利尻昆布=稚内市で2012年7月15日撮影」との説明書きなのです。見出しは大文字で【だしがたいせつ】【濃い「うまみ」出す昆布】とあります。

 

「そうかやっぱり時代は利尻昆布!」と確信した次第です。

 

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京大の伏木教授、こう語っておられます。

 

「うまみ成分は20世紀初めに日本人研究者が突き止めました。昆布だしは主にグルタミン酸」。

 

そして、記者からの「海外の人って舌が案外と鈍感なんでしょうか?」という問いに先生は答えます。

 

「いや、日本に昆布があったせいですよ。これほど濃いうまみを出す食材は珍しい。しかもカツオ節と合わせるとうまみが一段と強く感じられる」。

 

利尻昆布の秘めたるそのパワー。既にお使い下さっている日本各地の皆さまには、深くご納得いただいていることをお聴きしております。

 

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し、しかしですね。

 

食品・栄養化学の専門家であられる、現役バリバリの伏木教授が、まるで稚内教会の利尻昆布バザーを応援して下さるかのように、『こんぶ通信4号』の締切に合わせて全国紙に登場されたことに私は涙。

 

神さまが追風をビュッと吹かせて下さっていると勝手に信じます。アーメン。

 

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過日、札幌市内の教会で信仰生活を送っておられるご婦人から励ましと喜びのお便りが届きました。少しばかり、ご紹介いたします。ご本人の了解済みです。

 

 

我が家で、昆布料理一番人気は、出汁をとったあとの「昆布の佃煮」です。細切りの昆布、鰹節、ときに白ゴマを入れ、醤油とお砂糖で味付け。これが御飯の友に最高です。

 

あっ、稚内教会の利尻昆布を使って下さっている方から「血糖値が下がったんです!」(*個人の感想です)」「利尻昆布は、ほかと違って、だしが濁らなくていい」の声も届きました。

 

昨年沖縄に旅行した時にはお土産に重宝しました。軽くて傷まないですから。水の中で広がる昆布、気持ち良さそうな昆布、今日もありがとう。(以上「お便り」より抜粋)

 

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稚内教会は北海教区の一員。雪と寒さが一番厳しい季節にこそ集まって、お互い元気を出しましょう!

 

ということで、今年で62回を数える「教区年頭修養会」が1月に旭川で開催されました。

 

今回は稚内教会が属する道北地区が準備担当。閉会礼拝説教は稚内が担当ですよ、とのお恵みが回って来ました。それではということで、『利尻昆布10グラムの重さ』と題し、昆布作業時に着用する特製エプロンを掛け、昆布を手にして語ったメッセージの一部を以下に記させて頂きます。

 

「先生エプロン外さなきゃ」と心配して近づいて来た役員さんに「これで良いんですよ」と言って説教を始めました。

 

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『マルコによる福音書』12章に登場する貧しい寡婦(やもめ)が捧げた世にあって最も軽いレプトン銅貨2枚。それは様々な用途に用いる利尻昆布10㌘の重さに通じることを想います。

 

利尻昆布10㌘。

 

それは重さにすれば確かに10㌘しかない小さな破片に過ぎません。手のひらに取っても大した価値は感じられないでしょう。

 

 

しかし我々はここで立ち止まりたい。レプトン銅貨2枚の捧げものが軽く扱われることは、その存在が忘れられても構わないことになるのではないか、と。

 

イエスさまは彼女の《存在の貴さ》を明らかにされました。貧しい寡婦(やもめ)の《小ささ・軽さ》を誰よりも《重く》受けとめられた。

 

昆布は小さく切り分けられ、水に浸(つ)からなければ力を発揮しません。私たちも小さな者として水に浸(つ)かる洗礼を受けました。そんな私たちが周囲の方たちとの交わりの中に身を置き、いつしか人々から何かを引き出す者に変えられて行くのだから不思議です。(説教終わり)

 

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利尻昆布バザーを稚内教会が始めてまもなく1年。

 

「おいしい」「頑張ってるね」の声は、日本の最北端にある小さな教会にとって実に大きな励みです。

 

先頃、《稚内の特産品 利尻昆布》と《鹿児島県枕崎市特産 カツオ節》が「昆鰹(コンカツ)プロジェクト」を始めたというニュースが地元紙でも流れました。

 

縁結びの舞台は出雲大社の様子。稚内教会、キリスト教を代表して競(きそ)うつもり等これっぽっちもございません。立場を超え、共に歩み出す覚悟でございます。

 

負けるもんか!(笑)

 

続く(*たぶん)

 

 

2014年

2月

19日

2014年2月19(水) №117  『 「讃美歌」と「唱歌」のはざまを〈漁師さん〉と語るの巻 』


先週の木曜日だったか。

 

お世話になっている、稚内市内の漁師さんのお宅を夕刻に訪ねた。教会が取り組んでいる利尻昆布バザーのことで、1年近く前から色んなことを助けて下さっているご夫妻だ。

 

この季節の道北の漁港は、まさに風雪に耐えている、という一語に尽きるような世界だ。この日もお邪魔した頃は、荒れていなかったのに、帰り道は、軽い地吹雪に急変していた。

 

漁師さんが使っている、昆布切りのハサミを見せて下さったり、偶然、奥さんが取り出された昆布の色が、やや黒っぽくて、「森さん、ほれっ、天日でなく、乾燥機だけ使うとこういう色になるのさぁ。食べてみれ」と話題は尽きない。

 

こんな会話をお邪魔する度に繰り返して居るうちに、ほんと、勉強になるのだ。“門前の小僧習わぬ経を読む”ではないが、間違いなく、漁師さんのお宅に足を運ぶだけでも、いつの間にか何かを学べる。

 

まったく世界が違う方のお話を聴かせて頂けるのは、何より有り難いものだ。

 

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あれこれの話を40分程交わし、奥さまからは、「先生、これ、うちの今夜のおかずのお裾分け。ホタテ、これ、あまいよー」と言いながら、差し出してくださったりの、海の幸の恵みにもあずかる。

 

1時間後、風邪で体調を崩している妻が、とにかく家にあるもので夕飯をという状態だったので、我が家の食卓が賑わった。

 

確かにあまいし、大きい。何より味が深い。スーパーのものとは、何故こんなにも違うのだろう。とにかく、ご馳走様です。

 

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もしかすると、1月の上旬にあった、地元の漁業関連機械のお仕事をなさっていた方の、キリスト教式の葬儀のことが話題になるかなぁ、と思ってお邪魔したのだが、自然とその話題に話が進んだ。

 

教会の外部のご家族から依頼された葬儀のお世話をすることになり、お正月早々にお葬式の司式他の奉仕させて頂いたのだが、その時、前夜式・告別式共に、献花の際、漁師さんの姿が目に入った。

 

その時は、互いに「eye contact」で済ませていたので、いずれ、何かお話したいな、とわたしも待っていたのだった。

 

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「森さん、讃美歌ってーっのは、一体なんだろうって思ってたらさぁ、中学の頃に歌ったのと、あの日歌ったあれは、同じだったよ・・・」と漁師さん。

 

昭和10年生まれの父さん。御年78歳だ。

 

そうかぁ。教会に居れば「讃美歌」はごくごく当たり前に使う言葉だけれど、ご縁のない方にとっては、「はて、讃美歌とはなんぞや」ということになるのだと生まれて初めて気づいた。

 

【あの日歌ったあれ】とは、『 讃美歌21 』の「いつくしみ深い」の事だった。

 

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続いて、葬儀にはお出でにならなかったが、奥さんも続く。

 

「お父さんから聞いて、わたしも思い出しました。わたしは昭和21年生まれだけど「冬の星座」で覚えてましたよ。〈輝くみ空に ゆうひは落ちて〉だったと思うんだけど」と身を乗り出すようにして話に乗って来られた。

 

「確か、〇〇の結婚式に出かけた時も、同じ、曲だったと思います」とも言われた。

 

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そうなのだった。

 

昭和35年生まれのわたしは、公立小学校や中学で、残念ながらあのメロディーで、何かの曲を歌ったことはなかった。

 

けれど、唱歌というジャンルの中で、わたしが生まれる一昔と少し前には、普通にこのメロディーで歌われていたのだった。

 

ま、考えて見れば、十分あり得ることだ。

 

何しろ、讃美歌というのは、最新の〈讃美歌集〉でも、諸外国の民謡を曲として使っているものが多くある。各地で人気のある親しみやすいメロディーに乗せて、自由に、楽しく、歌い継がれてきたもの、それが讃美歌の“一面”でもあるというわけだ。

 

これ、20数年前に、神学校の「教会音楽」の講義か、「礼拝学」で教わったことだったかも知れない。

 

****************

 

少しだけ調べてみた。

 

日本で最初に歌われるようになったのは、杉谷代水(すぎたに・だいすい)という方が、宇宙の雄大さをテーマとした『星の界(よ)』という歌詞を付けたところにさかのぼるらしい。

 

明治43年(1910)発行の『教科統合中学音楽(二)』に掲載されたのが、教会とは無縁の歌として歌われた最初らしい。その頃には、多分、讃美歌としても使われていたとは思うが。

 

杉谷代水(すぎたに・だいすい)さんが生み出した『星の界(よ)』という歌詞で載っていたという。著作権の問題もなさそうなので、以下紹介。

 

『星の界(よ)』

 

1 月なきみ空に きらめく光
  嗚呼(ああ)その星影 希望のすがた
  人智(じんち)は果(はて)なし
  無窮(むきゅう)の遠(おち)に
  いざ其(そ)の星影 きわめも行かん

 

2 雲なきみ空に 横とう光
  ああ洋々たる 銀河の流れ
  仰ぎて眺むる 万里のあなた
  いざ棹(さお)させよや
  窮理(きゅうり)の船に

 

 他にも、こちらがルーツ、というのが出てくる可能性はあるだろう。

 

****************

 

『いつくしみ深い』(『いつくしみ深き』)の方は、ジョセフ・スクリーヴェン(1819-1886)によって『What a friend we have in Jesus』として生まれた歌詞。

 

その歌詞に、アメリカ人の法律家で作曲家のチャールズ・C・コンヴァース(1832-1918)が作曲したものが結び付いたものだ。

 

それが、日本に宣教師を通してだろうか、日本にやって来たのだった。横浜に上陸したのかなぁ。

 

そもそも、チャールズ・C・コンヴァースの曲は、コンヴァースの故郷ペンシルヴェニア州のエリーという町にちなんで作曲した器楽曲らしく、いわば“ふるさと賛歌”だった。

 

讃美歌には多くの物語があるとはよく聞くことだが、そのルーツは興味深い。

 

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漁師さん、満面の笑顔で、こうおっしゃった。

 

「森さーん、78歳でさぁ、偉大な発見をしたよっ!」と。

 

漁師さんを稚内教会の礼拝にお連れするのは、今の所むつかしいかも知れない。

 

でも、わたしにとっては、たのしく、豊かな夕べだった。漁師さんご夫妻も弾んでおられたと思う。

 

もしかすると、戦後まもない頃の歌詞を持参し、さらに、今の讃美歌も持っていけば、浜辺にある漁師さんのお宅で、聖書の話だって始められるかも知れないじゃないか。

 

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葬儀の時、わたしは、「イエスさまは、漁師さんを弟子として旅をした方なのですよ」と参列された稚内の多くの漁業関連のお仕事の方たちを前に語ったことも、聞き逃されてはいないことだろう。

 

この度のことも、神さまの備えられたこと。そう思わずには居られない。感謝。end

 

 

2014年

2月

17日

2014年2月17(月)№116  『 コールセンターの向こうから聞こえた「おおいた弁」 』


『ガリラヤのイエシュー』(山浦玄嗣・やまうら はるつぐ、イーピックス出版)にお世話になっている牧師は多いと想像する。

 

わたしはの場合、かつては南西諸島・徳之島、今は同じく奄美大島におられるO牧師から、クリスマスプレゼントに頂いてから、手にするようになった。一緒に読書会しましょう、とカードに添えられていたと思う。

 

お世話になっている、というのは、説教でというのが一番か。なにしろ、へたな注解書よりも、本当にさまざまな角度から有益な情報を示してくれる。

 

わたしは福音書から説教をするときには一度は手にするので、だいたい書棚の一番手の届きやすいところに置かれていることが多い。

 

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山浦さんによる『ガリラヤのイエシュー』はこんな下地の元、聖書が翻訳されている。

 

イエスは仲間たちと話すときは方言丸出しで語ると想定し、普段しゃべるときは東北地方の農民の言葉を使う。したがって、彼らが登場する時は仙台弁や盛岡弁でイエスは語るのだ。

 

しかし、ユダヤの地の公用語は関東武家の階級言葉に変わる。改まった説教をするときや、階級が上の人に向けては関東武家語となる設定だ。

 

いやいや、それに留まらない。

 

南は薩摩まで各地のふるさと(「セケン・世間」)の言葉で語る人々を登場させるのだから、恐れ入る。

 

そんな、見事な采配をした方言を駆使する仕事をなさるのは、聖書の原典を読めるようにとギリシア語を独学で学び、世に『ケセン語訳新約聖書・四福音書』を10年以上前に送り出された山浦さんだからできることだった。

 

 何かを伝えるためのfactorとしての言葉を考える上でも、考えさせられることばかりだ。

 

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ところで、きょうのお題は「方言」である。

 

身近な方言と言えば、我が家には〈博多弁〉の達人が居る。

 

家の外に一歩踏み出すと、滅多に口にすることはないが、それでも、気を緩ませると教会で「あー、ナオシテください」と口にして、周囲の人がキョトンとする。

 

「なおす」と聞けば、多くの人は「直す」か「治す」を想像するのではないだろうか。

 

だから、妻から、洗い物をして布巾で拭いた食器を「ナオシテください」と言われると、何か、壊れてしまったものを修理するのか、なぬ?と、感じるようだ。

 

もちろん、文脈というか、事の流れからして「しまっておいてください」と言っているらしい事くらいは、気がつくもので、ちいさな?は大事にならないままということもよくある様子である。

 

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一週間程前のこと。実はわたし、故郷の大分弁とおぼしきイントネーションに触れる場面があった。

 

この季節恒例、愛用する日本語ワープロソフト・『一太郎』の最新バージョン「一太郎 2014 徹」が販売となり、そのインストールにまつわる質問を、(株)ジャストシステムの問合せ窓口にしていた時の事だった。

 

偶然、わたしの質問したことに答えられる人が今はあいにく居りませんので、後ほど、こちらから森さまにお電話いたします、ということで待つこと数十分。

 

受話器越しに適切な指導をしてくれて殆ど用件が終わる頃に、実はわたし、抑えきれない衝動を覚えていた。

 

****************

 

「あ、あの、〇〇さんと、仰いましたよね、ほんとうにありがとうございました。最後に、ひとつ、プライベートなことかも知れないので、お答えになれないかも知れないのですが、質問させて下さい。実は、僕、九州の大分県の出身の人間なのですが、〇〇さんのイントネーションを聞いていたら、もしや、大分の方ではと思ったんですが・・・・」

 

〇〇さん。いい人でした。

 

「申しわけございませんが、そのような質問にはお答え出来かねます」

とか、

「ご一緒に、ポテトフライはいかがですか?」

というマニュアルに書かれている通りのような、寂しい回答ではなかった。

 

「いぇー、わたくし、四国の徳島の方から電話しているんですよ」

 

それが答えだった。

 

ジャストシステムは徳島市川内町平石若松108-4と東京の二ヶ所に本社があり、ジャストシステム発祥の地・徳島から電話をくれていたと知った。

 

****************

 

あらためて徳島県の位置を確認すると、淡路島をはさんで大阪に近い所。そして、徳島市川内町は、徳島阿波おどり空港の近くにあるようだ。

 

大分県大分市大在(おおざい)という、瀬戸内海沿岸の部落でわたしは育った。徳島はそこからはだいぶ離れている。

 

幼い頃、大在の浜辺で汐干狩をしたり、海水浴をしていたときに、遥か彼方に愛媛県の佐田岬が見えることがあった。

 

がしかし、徳島はおそらく大阪の原語圏に近い場所だし、方角も違う。

 

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でもそんなことはどうでもいい。

 

確かに、感じたのだった。

 

この人の言葉は、俺の心の奥底に刻まれている言葉に繋がっている。

 

「おおいたやんか」と。

 

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偶然なのだが、わたしは大分に暮らしながら、かつての「東京方言」を土台とした標準語を家の中で使う家庭に育った。

 

しかし、家の中がそうだからと言って、小学校や中学で、大分の友人たちと、「あのさぁ」とか「だろう?」等という言葉を使っていたわけではない。

 

「よだきい」(何と『広辞苑』に掲載あり)

「ちょくれ」

「のー」「ひこずる」

「~ちゃ」

「むげねーやっちゃのー」

 

というような大分弁を、大分空港か大分駅に一歩降りた途端にスイッチを切り替えて使うことが出来る。自慢するようなことではないのだが。

 

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かつて、中学時代の同級生の「たなかみゆきちゃん」と、国鉄からJRに代わって間もない頃の日豊本線に乗っていたときに会った。(注・ただの友だちです)

 

「おー、みゆきちゃん」「あー、げんちゃん」と言って立ち話を始めた時、シコタマ叱られたことがあった。

 

「げんちゃん、あんた なん へんなことば つかいよんの、すっかーーーーん。どこのことば つかいよるん」(怒、怒、怒)。

 

みゆきちゃん、どうしているかなぁ。

 

みゆきちゃんとは、偶然に、ほんとうに偶然に、わたしが学んだ神学校がある、あの山手線のJR目白駅近くで、出会ったことがあった。会話からして結婚してあの辺りに暮らして居る様子だった。

 

そして言っていた。

 

「わたし、この近くにおるんよぅ」と言ったのか、「げんちゃん、わたしもこの辺りに暮らして居るのよ、オホホ」だったかは残念ながら忘れたが。

 

日本は狭いなぁ。

 

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方言。

 

これは凄い力を持つものだなぁと、常々感じてはいたし、日頃から、それなりに気を遣っていたけれど、思いがけないところで、俺の魂のスイッチを入れてくれた、ジャストシステムの〇〇さん。

 

ありがとう!

 

あなたが徳島の川内町周辺に暮らす方であっても、ほんとうに本当に嬉しい時間でした。いやー、思わず恋しそうになるほどでござんした。

 

****************

 

アクセントなのか、発音なのか、言い回しなのか、その辺りは正しく言えないけれど、あなたは、オイラを「故郷・おおいた」にしばし引き戻してくれていたのです。

「教養のない田舎者の言葉」と言われる方言。

 

でも、今回調べて見れば、標準語や共通語も、元をたどれば、東京方言だと知った。

 

とするならば、京都の方たち、大阪の人々が、一歩も譲ることなく、自分たちの言葉を胸を張ってというか、さらーっと使い続けるのも納得なのだった。

 

方言。勉強し直して見る価値がありそうな予感である。いやいや、その根っこにある事というのは、実は、今の牧師としての働きと、ふかーい所でリンクしているのは間違いない。

 

郷愁のようなものを感じさせてくれた受話器越しの【言葉】。これは、わたしの最重要な日々の課題なのだ、と改めて知らされたのだと思う。と同時に、たまには大分に帰ろうよ、という心の叫びかも知れないな。end

 

 

2014年

2月

15日

2014年2月15(土)№115  『 新宿ゴールデン街と花園神社に一番近い教会 』

 

20代の半ばごろ、新宿のゴールデン街に近い花園神社に通っていたことがある。

 

唐十郎さんが主催する《情況劇場》という劇団のシンボル、紅テントでの公演が行われていたからだ。

 

紅テントによる公演。それはまさにサーカスや芝居小屋を思わせるものであり、狭いせまい畳みのしかれた空間に、若者たちが身を寄せ合って小さくなってしゃがみ込み、唐ワールドに没頭していた頃が懐かしい。

 

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わたしが通っていた頃には、既に劇団を離れていたのだけど、根津甚八、小林薫も情況劇場を通って育った人たちだ。

 

唐十郎さん本人や、当時の妻である李礼仙さんほか、怪優とも言える人々の舞台は、刺激に満ちていた。

 

寺山修司率いる天井桟敷も凄いと思ったけれど、末期しか知らないので比較しにくい。

 

それにしても、演じる場所が野外ということだけでも、唐十郎率いる情況劇場がなそうとしていたことは、演劇の世界や社会を挑発し続ける存在だったと思う。

 

****************

 

そんなゴールデン街や花園の神社が隣接する地域ので開拓伝道されている牧師が居られる。というか、その働きに共鳴する信徒の方々も当然居られるはずだから、N先生の働きだけで存在しているのではない。

 

教会は、日本キリスト教団新宿コミュニティー教会。

ホームページはURL:http://sccmission.net/ だ。

 

牧会されているN先生は神学校の同窓生で、本当に頭が下がる働きをなさっているなぁ、とかねてから思ってて居た。

 

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メルマガの老舗のひとつ、【まぐまぐ】で、何かの折りにメルマガを発行しておられことに気づき、無料購入をしている。

 

【まぐまぐ】にログインし、「Yockey牧師からのメッセージ 」・「新宿コミュニティー教会 日曜日の礼拝メッセージから」・「新宿コミュニティー教会」のいずれかで見つかるのではと思う。

 

じっくり読める日ばかりではないが、昨日届いたメルマガ、わたしは感動した。

 

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メルマガのメッセージ。クリスマスの時のものだった。

 

一読した時は読み落としていたけれど、あらためて読み直して見ると、最初に記されていたのは祈りだと知った。

 

新宿のコンテキスト・状況・文脈の中で生まれた祈りは、普遍的な力を持つことに気づく。

 

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以下しばし引用。

 

祈り】
・・・愛する者を失った人々、悲しみのどん底に置かれている人々、苦しみと戦っている人々、HIV-AIDSをはじめ病や怪我のために絶望のふちにある人々、虐待を受ける子どもたち、不登校の子どもたち、この国に平和をそして希望を求めて来たはずなのに、かえって苦しみの只中に置かれてしまった滞日外国人の人々、今夜食べる物にもありつけないでいるホームレスの人々、また、新宿2丁目のセクシュアル・マイノリティーや歌舞伎町や大久保の在日外国人をはじめ不当な差別のために生きる力をなくしている人々、 私たちの教会を一歩出てみると、この新宿の街にもさまざまな人々がひしめいています。

 

クリスマスの祭りどころではない人々が実にたくさんいます。この現実の中で、私たちはここに集まって参りました。

 

私たちの内にも、このような痛みや苦しみを抱えています。また私たちは自分のみじめさを、そして弱さを良く知っています。私たち自身の心の中に暗闇があります。

 

しかし、今夜、私たちは嘆くためにここに来たのではありません。喜びを歌うために来たのです。どうか神さま、あなたが私たちにそして世界のひとりひとりに漏れなく注いでくださる愛を、心を開いて受け止めることができますように。そして私たちがあなたから降り注がれる愛を一身に受け、あたたかな気持ちを抱いて家路につくことができますように。そして私たちのその心を他者に向けて、愛することができますように。

 

 「神は私たちとともにおられる」との天使の言葉を心に刻み、私たちは決してひとりではないのだという思いを確信へと至らしめてください。私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

 

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続いて【メッセージ】からの引用

 

個人的なことを申して恐縮ですが、私は明日このキリストを信じて洗礼を受け、クリスチャンになって30年になります。

 

30年前に活躍していた大衆伝道者の本田弘慈牧師は「イエスさまを信じたら、電信柱に花が咲き、死んだ魚が踊りだす」と言ってメッセージをしていました。電信柱にいのちはありませんから花が咲くことはないでしょう。

 

 死んだ魚は腐って行く一方ですから踊りだすことはないでしょう。けれども、電信柱のように寂しく立ち尽くしている人がいたなら、キリストはその人に花を咲かせるような力を与えてくれるでしょう。死んだ魚のようにくさっている人がいたならば踊りだすような力をキリストは与えてくださいます。

 

どうぞこのイエス・キリストと今夜ここから新しい一歩を踏み出してください。そこには必ず神さまが祝福してくださる人生が待っていることでしょう。

 

今夜ここからキリストの愛をいただいて、それを私たちの新しい希望にしましょう。そしてこの教会を扉を出て、その愛を必要としている人のところに運びましょう。祝福がありますように。

 

引用 おしまい

 

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でもって、以下は、感動したわたしからの応答。

 

同窓生の森 言一郎(もり げんいちろう)です。北海教区 最北の町、稚内教会で働いています。メルマガを登録して、数ヶ月。じっくり読める日ばかりではないですが、 先ほど、クリスマスメッセージを読ませて頂きました。よかったです・・・・。

 

新宿のど真ん中でのお働き、引き続きふんばってください。

 

僕は、20代の頃、花園神社での唐十郎さんの情況劇場とか、紀伊國屋ホールでの芝居など、時々、やって来ていました。献身前なので、何かを探していたのだと思います。では失礼します。

 

****************

 

続いて、N先生の返信。

 

今朝のクリスマスメッセージについては、ほかの読者からも反応がありまして嬉しく思っています。毎年イブ礼拝には新来会者が来るので、・・・私が「感動」したことをそのまま伝えました。

 

新宿で10年開拓してきまして、思うように宣教が進みませんでしたが、試行錯誤しています。

 

花園神社からもとても近いです。毎年、お祭りの日が日曜日で、礼拝中に神輿が教会前を通るので、説教の声を大きくしなければなりません!

 

またいつかお目にかかれますように願っています。稚内教会と先生のお働きが祝されますように祈っております。

 

****************

 

東京新宿の片隅で礼拝を捧げ、福音を宣べ伝える同窓生の存在。

 

嬉しいなぁと思う。

 

あらためて返信した。

 

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Nさま

 

丁寧な返信 恐縮です。・・・メルマガのメッセージ。また、読み直してみたいと思います。本多弘慈先生のものまであたられているとは、N先生の幅広い学びにびっくり。どれもよい話でした。

 

僕も学んで いつか 語れるようになりたいなと思います。

 

稚内、道北という場所は、新宿とかけ離れているようでありながら、根っこでは何もかわらないのだろうな、と思います。いつかお目にかかりましょう。

 

****************

 

春が恋しいと思っていた日だったが、心地よい風を感じた一日だった。力を、勇気を頂いた。

 

神さま、感謝します。N先生、ありがとうend

 

****************

 

※参考までに【新宿ゴールデン街(しんじゅくゴールデンがい)】について 『Wikipedia・ウィキペディア』より


新宿ゴールデン街(しんじゅくゴールデンがい)は、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にある飲食店街。花園神社と隣接し、第二次世界大戦後に建てられた木造長屋建ての店舗が狭い路地をはさんでマッチ箱のように並んでいる。映画・演劇関係者や作家、ジャーナリストが多く集まる街としても知られている。

 

新宿ゴールデン街 もともとは新宿駅東口にあった闇市(和田組マーケット)が起こりである。1950年ごろ東京都が駅前の闇市を撤去した際の替地として当時都電沿いの土地であった場所に移転してきた(都電の跡が現在、四季の道という遊歩道)。当時は繁華街から離れた場所であり、ほとんどの店が飲食店の名目で赤線まがいの営業をしていた。風俗営業法の許可を取らないもぐり営業のため、俗称で青線と呼ばれた。歌舞伎町付近にはこれ以外にも青線が集まっており、都内でも有数の売春街であった。

 

売春防止法施行(1958年)の後は飲み屋が密集する「ゴールデン街」と名を変えた。この街の店は、文壇バー、ゲイバー(特に女装バー)、ボッタクリバーの3つに分類できるとも言われた。店内は3坪または4.5坪と狭く、カウンターに数人並ぶと満席になる。

 

文壇バーには、作家やジャーナリスト、編集者らが集まり、(全共闘世代などが)熱い議論や喧嘩を繰り広げる場所でもあり、佐木隆三や中上健次などが常連として知られた。バーが営業を始める時刻以降に行けば、誰かしら著名ライターに逢える地域でもある。また映画監督や劇団の演出家、男優、女優、モデルなどにも常連客が多かった。

 

バブル経済の最盛期には地上げ屋に狙われ、放火事件などもあったが、この街に愛着を持つ者も多く、現在でも1950年代の雰囲気を残す場所として続いている。

 

*長くなりました endであります(*'-')ノ~

2014年

2月

12日

2014年2月12(水)№114 『 《十字架》と《南無阿弥陀仏》の午後 』

この人が、浄土宗 大林寺の副住職、井上耕心さん。凛々しい!
この人が、浄土宗 大林寺の副住職、井上耕心さん。凛々しい!


浄土宗のホームページを訪ねてみた。なかなか立派、というか素晴らしく整ったものだった。

 

浄土宗のHPを見たいと思う切っ掛け。

 

それは、わたしが仕える稚内教会で、2月9日(日)の午後0時半から、「東日本大震災を考え 共にあゆむ集い」を行った時の講師が、稚内の寺町と感じることがある方面にある《浄土宗 大林寺》の“若”=副住職、井上耕心さんだったからだ。

 

地元稚内から、震災発生後3年の間に幾度も被災地に出かけ、これからもそれを続ける覚悟をもっている“若”の存在を『稚内プレス』を通して知ってから半年余り。念願かなってお話を聴く時間が生まれた。

 

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35歳の“若”のお話。ユーモアのセンスも素晴らしく、聴く者の心をひきつける。

 

確か、初めてお目にかかった昨年の夏、何やら、我々が言うところの「説教」を研究するような立場でしばしば稚内を離れて出張する、と言われたような気がした。

 

が、テクニックの問題とかではなく、実存がかかった言葉には力があった。

 

「東日本大震災被災被害者の言葉から学んだこと」というタイトルで、その全編を見ることも聴くことも出来るので、時間のある方は、稚内教会の礼拝録画のページへどうぞ、と思う。

 

じつはわたし、申し訳ないことに、道北地区の会議と重なる日程で予定を組んでしまい、当日は、最後まで聴くことが出来なかった。

 

それで、先ほどじっくりと録画を見終えたところだ。

 

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井上耕心副住職。講演の中では、「南無阿弥陀仏」のひと言も、触れなかった。

がしかし、初めと終わりに、あれこれ推測したくなる姿が礼拝堂のまん真ん中にあったのだった。

 

遠くに暮らす友人が教会HPの録画を見て・聴いて、こんな感想を送ってきてくれた。わたしが感じていたことと同じことに、先ず触れてくれた。

 

【素晴らしい方ですね。何よりもお話の前後に、十字架に向かって祈りを捧げてくださったこと・・・本当に感謝なことだと思いました。稚内教会で、思わず木魚をたたき出す方が出ないか?と心配になるほど。了見が狭い?】

 

友は「祈りを捧げてくださった」と記している。

 

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わたしは、井上副住職さんに、近く尋ねようと思いつつ、ひとまず、友人にこう返信した。

 

【(ぼくは)《南無阿弥陀仏》ととなえられたのだろうと想像します。今度、聴いてみます。】

 

パソコンに入っている『明鏡国語辞典 第二版 (C) Taishukan, 2011』(この辞典は本の形でも我が家にあるが、とにかく、文字の使い方がよろしくて老眼にやさしい。内容も現代的)に依れば、《南無阿弥陀仏》を、こう説明する。

 

その中に、いの一番、「浄土宗」という言葉がある。

 

【「南無阿弥陀仏」阿弥陀仏に帰依する意を表す語。浄土宗では、阿弥陀仏の浄土に救済されることを願って唱える語。六字の名号】(『明鏡国語辞典 第二版 (C) Taishukan, 2011』より)

 

もっとも、同じくパソコンに入っている『岩波国語辞典』にはこうある。

 

【浄土宗・浄土真宗などで、阿弥陀仏(あみだぶつ)への帰依(きえ)を表して唱える語。これを唱えるのが念仏。】とあり、親鸞さんの真宗の方にも触れてはいるが。

 

****************

 

でもって、浄土宗さんの「浄土宗のおしえ」である。以下、HPからの抜粋だ。

 

 

浄土宗は、法然上人を宗祖と仰いでいる宗旨です。・・・・すなわち 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) を口に出してとなえれば、必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる、という他力のおしえをひろめられました。

 

・・・・・法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏をとなえよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口にとなえて仕事をしなさい、その仏の 御名(みな) のなかに生活しなさい、と教えられています。

 

・・・・南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出してとなえられます。できるだけたくさん口に出してとなえるほど、私たちは仏の願いに近づくことになるのです・・・法然上人の教えは、今生きることによろこびを感じることであります。念仏をとなえながら、充実した日々をお過ごし下さい。

 

****************

 

なるほど。わかりやすい教えだ。

 

昔から、プロテスタントの信仰にとても近いものがあるのが「南無阿弥陀仏」の教えと聞いていた。

 

今回の出会いは、人の知恵を超えて、神が備えられたものと、あらためて感じている。

 

井上耕心副住職。

 

礼拝堂の講壇に持参された黄金色の掛布を手馴れた所作で置かれた。なるほどねぇ。そのような伝統があるのだなぁと思ったものだった。

 

あれもこれも新鮮に感じた。

 

他にも、被災地での震災発生後まもない頃の、宗教者の無力を悔しがる言葉を率直に語って下さるなど、本当に多くの刺激を受けたこの度の出会いだった。

 

神に感謝。end

 

2014年

2月

09日

2014年2月9(日)№113 『 そつえんのおともだちへ 原稿書いたよ! 』

わっかない ひかりようちえん

2014ねん

3がつ そつえんのおともだちへ

 

「 めにみえない たいせつなもの 」

 

 

みんなぁ! そつえん おめでとう。

 

きょうかいで りすくん そして ふくろうのフクちゃんと れいはいしたよね たのしかったなぁ。

 

わすれられない おもいでだよ。

 

 

きょうはね みんなに ひとつ しつもんをしてみようとおもうんだ。

 

おうちのひとといっしょに かんがえてみてね。

 

「 めにみえないもので たいせつなものには どんなものがあるだろう? 」

 

ときかれたら みんなは なんて こたえるかな。

 

おもちゃ ほん おかね。 そういうものは めにみえるよね。

 

 

カナダ という おおきなくにが あるんだ。 とおいところにあるくにだよ。

 

そこにくらす しょうがく5ねんせいの こどもたちに おんなじしつもんを あるひとが したんだ。

 

するとね こういう こたえが かえってきたんだって。

 

 

カナダでは えいごがつかわれているから えいごでも かいておくよ。

 

【 ジャスティス・justice  / にほんごでは〈せいぎ〉 】


【 ラブ・love / にほんごでは〈あい〉 】


【 ピース・peace / にほんごでは〈へいわ〉 】


【 フレンドシップ・friendship / にほんごでは〈ゆうじょう〉 】


【 フェイス・faith / にほんごでは〈しんらい〉 】

 

 

しょうがくせいになっても ちゅうがくせいになっても おとなになっても めにみえない たいせつなものを かんがえられるひとでいられることは だいじなことだよ。

 

それじゃ またあおうね!

 

ぼくしせんせいは みんなのことを これからも おいのりしている。

 

いっしょに れいはいした あの きょうかいの 2かいに いつかまた おいでね。

 

まっているよ!end

 

 

by わっかないひかりがくえん りじちょう

  わっかないきょうかい  ぼくし : もり げんいちろう

 

 

2014年

2月

03日

2014年2月3(月)№112 『 整形外科未満 サロメチール以上 』

 

稚内教会の牧師館と教会。直線で糸を張れば、60㍍も無いかも知れない。

 

着任まもない頃、教会で使っている電話の子機を、牧師館に持って来てみた。牧師館の玄関先で、ざぁーざぁーと音を立てながら、何とか繋がった。

 

電話機のcatalogue的には余裕のよっちゃんの距離のような気がしたけれど、日常的な使用はあきらめた。

 

****************

 

表通りから牧師館に向かう所に、20㍍程の坂道がある。坂道途中にあるお家が売りに出されて半年が過ぎたけれど、未だに売れない。

 

妻は、「坂道やけん、買うのに決心デキンチャないと?」(博多弁ですな)と言っていた。そういうものか。

 

20㍍の坂道。これが曲者である。

 

先生、それくらい何でも無い距離でしょと思われるかも知れない。そう、そのとおりで、距離は問題無いのですね。

 

しかーし、冬の凍結した道というヤツは、やっかいだ。

 

少し暖かい日があって、日中氷面が一度解けて、夕方頃から凍結。さらに、それを覆い隠す雪が朝までに数㎝でも降り積もると・・・・。

 

これはもう、落とし穴が準備されているようなもので、浅田真央ちゃんでも素っ転ぶ、危険な坂道となる。歴代の牧師およびそのご家族も、きっと痛い目に遭いながら、学習していったことだろう。

 

****************

 

だいたい、人間というのは、油断をしてしまうものである。ちょっと人を待たせていたり、他のことに気持ちが向いている時はどうなるか。それだけでも、簡単に忘れる。

 

「あそこに、敵をおとしめる落とし穴がある。お前落ちるなよ、いいな」
「地雷の位置を再度言うぞ! 〇〇の先だから 十分に注意せよ」

 

そんなことを言われたとしても、途中で携帯電話が鳴ったり、反対側の方で誰かが手を大きく笑顔で振ったりしてくれているとしよう。

 

ま、少なくとも、わたくしはですね、スッぽーんと飛んでしまいます。3歩あるくと忘れる、という部類の人間だ。

 

****************

 

せんえつながらではなく、恥ずかしながらでもなく、えーーっと、胸を張って言うほどのこともないのですが、実はわたし。転ぶのは上手です。実際、人生何度も転んできましたよ。

 

血も流さない、骨も折らない、でも、大怪我をして傷を負ったような気もする。

いやいや、そういうことではなくて、本当に転ぶのが上手いのだ。

 

なぜか。

 

わたし、サッカーのゴールキーパーだった。

 

最高の栄誉といえるかは別にしても県大会の決勝ではテレビ中継の試合に出場したこともあるのだった。

 

ただし、頭上を遥か遠くに越えていくと見受けたボールに、当時、日本リーグに所属していた新日鉄のサッカー部に進まれた大分工業高校の《脇坂先輩》に頭=ヘディングで何度も持って行かれた(シクシク)。

 

俺の手は届かないのに。

 

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で、ゴールキーパーは、セイビングをする。横っ飛びやなんかで素っ飛んで、当然、柔らかに着地しないといけない。

 

それができる自信がチョビットだが、いまもってあるわけだ。

 

実際、足寄という北海道の道東の町での想い出がある。シンガーソングライターの松山千春さんの故郷の町の記念館のようなところに、まだ、稚内教会にやって来るなんて思いもしない頃に、妻と二人で出かけていたわたし。

 

目立たないところにある長椅子に足を取られ、スッテーンと転がった・・・・その瞬間を妻は振り返りざまに見ていた。

 

「なん、しょーと?」(博多弁)=「なーに、ころーんと転がって受け身しているの、あなた?」(標準語)

 

それが妻の発した言葉だったのだ。

 

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タイトルに【整形外科未満】と掲げた。

 

冒頭に記したように、教会と牧師館を結ぶ坂道。魔がさすことがあるのだ。

 

10日ほど前、幼稚園バスを運転する先生から、大声で、「だいじょうぶですかぁーー!」と声を掛けられて、笑顔で「だいじょうぶだよー!」と答えたような、思いっきり、ひとさまに心配掛けるほど、すってーーーんと転んだことがあったのだった。

 

その時、足もとを踏ん張れなかった分、左足の膝が踏ん張ろうとしたのだろう。ギクッ(゚o゚;)と膝がちいさな声を出した。

 

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ま、何とかなるか、と思い、三日経った。しかし、三日三晩を経た頃から、何だか、何にもしなくても膝がうずき出した。

 

以来、ふとした時に、膝が痛い。そのたびに、しかめっ面になってしまう。

 

お年を重ねた人生の先輩方が、膝の水を抜いたとか、マッサージに行くとか、他人事で聞いていたが・・・・。やれやれ、腫れてはいないけれど、事あるごとに痛むのだった。

 

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【サロメチール】と書いてあるわけではないけれど、「経皮吸収型鎮痛・消炎剤 スミルスチック3%」を妻から手渡され、コリコリと塗っているこの頃だ。

 

いろんな痛みを抱えることには慣れているが、膝の痛みは初めて。これは結構、やっかいですなぁ。歩くのに、膝を使わないわけにはいかないし。

 

というわけで、体重維持というか、減量のための、ステップ運動は10日前から完全にお休み中。ダイエットの壁が思いがけない形ではだかってしまった。

 

雪道は難敵であります。急がない、慌てない暮らしをすることしかないらいしい。

 

「春遠からじの」ニュースは九州の太宰府近郊やら、関東地方の各地の親しい仲間からは聞こえて来るが、稚内の春はまだまだでござんす。ごきげんよう。end

 

 

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