2014年

6月

23日

2014年6月23(月)№143 『 抱きしめてほしい 彼女は言った 』

Tさんに電話をした。

 

故郷の関西のイントネーションが抜けないTさん。とある、町にお住まいのご婦人

だ。

 

15分位の会話のさいごに「ほな、センセイも美樹さんも元気でね」「Tさんもね。Tさんは、もう歳だからね」。

 

そう言うと、「そうなんよ、せんせい。もうすぐわたし67歳よ」と言われた。

 

Tさんは、ご主人を天に送ってからもうそろそろ20年近くが経過しているはず。白髪が素敵なご婦人だ。

 

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詳細な経緯とか理由はお聴きしていないけれど、Tさんは所属する教会に通うことがどうしても出来なくなって、10年近く経っていると思う。

 

そんなTさんに、なぜか、わたしは半年に一度くらいのペースで電話をし、声を聞きたくなる。

 

お互いに、「生きとったぁ-!」と言うような言葉を漫才をしているかのようにやり取り出来るようになったのはいつ頃からだろう。

 

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前回の電話で、民生委員の仕事をしている、と話していたのが心に残っていたので、「どうなの?」と聴いてみた。

 

「赤ちゃんから老人までやからねぇ、色々あるんよ、先生」と言われる。

 

「そうよなぁ」とわたし。

 

「最近わたし、こういう(民生委員)仕事しとるとねぇ、礼拝でみ言葉を聴いて、神さまからの養いを受けないと、続けるのはたいへんって思うよ。そうせな、アカンと思う」とTさん。

 

熱心なクリスチャンであるだけに、所属している教会に通えない躓きは深刻だ。

 

だから、町の中で自由な立場で参加できる聖書の学びの場に顔を出したり、賛美の集いにも出掛ける等しているのだろう。でも、それでは決して満たされない思いがあることも十分に伝わって来る。

 

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話の脈絡は忘れてしまったけれど、何かの話の中で、ここ数年の内に、お母さまを天に送られ、その半年後に弟さんを送られたことを、Tさんはポツリと口にされた。

 

そしてこう続けた。

 

「わたし、居場所がないんよ、先生」

 

きっとお母さまがお元気な頃は、あれやこれやで、お母さんの所にしばしば顔を出すことが出来たのだろう。

 

居場所。

 

それは言葉を変えれば、心の置き場所なのだろう。

 

「なんかねぇ、部屋に一人でおったら、急に息苦しくなって、外にでて歩き出すことがあるんよ、先生」とTさんは続けられた。

 

「そうっかぁー」とわたし。

 

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Tさんはさらに「なんかねぇ、抱きしめてほしいと思うことがあるんよ」と口にされた。

 

「そうかぁ、Tさんを、オレが抱きしめるわけにいかんもんなぁ」と言うと、

 

「うぅーん、ん、いいんよ、わたしはそんなこと気にせんからねぇ」とTさんは続けた。

 

そうか、いつかギュッといくかな、と可笑しくなる。

 

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抱きしめられること。

 

そして、抱きしめること。

 

67歳のひとりのご婦人は、ごく自然にそのことが必要だ、と口にされた。

 

そう。

 

これって、どんなに歳を重ねても、人にとって必要なことなのだ。

 

ワールドカップの選手達だってゴールの歓喜の時に、そうしている。いや、悲しいときにもそうしている人々が映し出される。文脈は違うように見えても、本質においては同じなのではないか。

 

わたしに洗礼を授けて下さった牧師の奥さまは、神学生時代にわたしを見つけると、「もりくーーーん」と言って両手を差し出してくれた。hugの思いを、心を、伝えてくださっていたのだった。

 

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母が52歳で召されて行く直前、故郷大分のとある病院のひろーい個室での看病が続いていた。

 

わたしが23歳の時だから、もう30年が経った。

 

母の意識が混濁していたある日の朝、父も一緒に朝のひとときを過ごしていた。わたしは少し離れた場所にある簡易ベッドで仮眠をとっていた。

 

何かの拍子に母は恐怖を感じたのだろうか。母は父に向かって「“わこ”たすけて、“わこ”たすけて」と口にしながら両手を差し出した。

 

ぎこちないながらも、父は「ここにいるよ」と言いながら母を抱きしめた。数十秒の間、そんなことが続いた。

 

母も求めたのだ。

 

混乱と混濁の中、抱きしめられることを。

 

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わたしの母の名は「かずこ」と言う。

 

漢字で記すと「和子」。

 

父も亡くなり、今や誰にも聞くことは出来ないけど、若かった頃、父は母のことを「わこ」と呼ぶことがあったのかも知れない。

 

あるいは、母は自身のことを「わこ」と言ったのか。

 

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抱きしめてほしい。

 

Tさんは、わたしに言った。

 

それはわたしに向かって言ってはいるけれど、実のところ、“あのお方”に向かって言っているのだ。叫びでもあり、祈りでもある。

 

半年ぶりの電話。

 

たいせつなことを思い出させてくれたひとときだった。

 

抱きしめられること、抱きしめること。もっともっとたいせつにしなきゃいけない。照れくさくて、たとえhugが出来なくても、それに代わる何かをたいせつにしたいなと思う。

 

抱きしめられなくていい人、そんな人なんていない。end

 

 

2014年

6月

19日

2014年6月19(木)№142 『 概論で「渇き」を考えてみた 』

日本で一番ちいさな大学の一つ、「稚内北星学園大学」のキリスト教概論の講義。

 

きのうは10回目だった。年度初めに講義概要=シラバスを提示しつつ進むのだが、毎回悩む。

 

イエスと出会った人たちの3回目は、ヨハネによる福音書4章に登場するサマリアの女を取り上げることにした。

 

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少し早めに教室に着いたので、諸々の段取りと共に、ヒムプレーヤを流し始める。

『讃美歌21』の404「あまつましみず」を掛けた。

 

どんな形であれ、講義が終わるまでに(サマリアの女の場面が歌詞の土台となっている)この賛美歌に触れたいなと思っていた。

 

結局この日は、最後の10分、学生さんたちが授業を振り返っての小プリントへの書き込みをしている時間に、わたしは歌い始めた。

 

そして、耳だけ貸してもらって歌詞を説明。

 

聖書の物語と賛美歌が結び付いているなんて、学生さん達は知らないわけで、「そういうものなのか」と思っていたのかも知れない。

 

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講義の最初。《アイスブレーク》をすることにした。昨日は24名が出席していたのでゆっくりは出来なかったけれど。

 

「最近、身近な所で起こった、うれしかったこと、良かったことを教えて下さい。20秒位かなぁ。はい、窓側の後ろの方からどうぞ・・・・」

 

4年生から1年生までが出席しているクラスなので、入学間もない1年生にとっては、特に知らない先輩が多い。いやいや、上級生だって後輩たちを知らないのだ。

 

互いが知り合えるようにと思い、「学年と名前を言ってから、お願いしまーす」と伝える。

 

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前回講義が終わったあと、「先生、今度、ソフトボールの時間来ますか?」「サッカーもありますよー」と声掛けしてくれた方が居て嬉しかったのだが、クラス全体の空気が、少しだけど、ほんわかと感じられるようになって来た。

 

「jeansを買いに行ったんですが、予算の半分で手に入れられて嬉しいです」

 

「母から、稚内に無いセブン・イレブンのスパゲッティがクール便で送られて来ました。ステーキも入っていて友人と一緒に・・・」

 

「ガラケイからスマホに変わったこと」

 

等々、気楽に語り、楽しく聞き合う。無口に見える学生さんも思いがけず雄弁だったりする。

 

わたしは『信徒の友 6月号』の「神に呼ばれて」を読んで下さった、かつてご一緒に教会生活を送って居た懐かしい方からの電話やらお便りが届いたことを知らせた。

 

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クラスの空気が和み、互いの心に橋が架かったころに板書した。

 

「渇き」

 

さらに言葉を添えて、「わたしは、○○○のことで渇いています」と書いた。

 

そして問う。

 

「《渇き》を他の言葉に置き換えると、どんなものが想像出来ますか」と。

 

この日は名簿にそって4年生から順番に答えてもらうことにした。

 

この作業。説教の黙想のような事に近いかも知れない。ただし、まだこの時には、ヨハネによる福音書4章のみ言葉自体は皆で読んでは居なかったけれど。

 

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「何かが足りない」
「張り、艶がない」
「空っぽ」
「孤独」
「むなしい」

 

という声が聞こえた。

 

このBlogを読んで居られる方はどうです?

 

「何に渇いていますか?」

 

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サマリアの女がどんな境遇に生きているのか。聖書本文を輪読しては立ち止まり、わたしが解説の言葉を添えていく。

 

「ふつう、井戸に水を汲みに来るのは朝とか夕だったのに、この女性はなぜ、正午頃、水を汲みに来たんだろう」と聞いてみた。

 

「朝、水を汲みに来て、こぼしてしまったんだと思います」とのもっともな答えもあった。

 

「5人の夫が居た、という記述の背後にあるこの人の人生のイメージは」と続けた。

 

「この人は夜のお仕事をしていて、朝遅くまで寝ていて、起きたのがこの時間・・・・」という声。

 

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ひととおりの意見を聞いた。

 

そして「僕はこう読みまーす」、と語り始めた。

 

「渇くことがない、その水をください」というサマリアの女が求めたものってなんだったのだろう、と想いながら。

 

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「『イエス・キリスト』の『イエス』は名前だったよね。その時代に、イエスは他にも居た。」

 

「じゃ、『キリスト』って何だったかなぁ。どういう意味だっただろう」とあらためて聞く。

 

直ぐに答えはなかった。遠慮している方も居ただろうが。

 

順繰りで、1年生の番だったので、いつも一番前に腰掛けているSさんに振ってみた。

 

「救世主、メシアですか」

 

「そう、救い主だよね。サマリアの女は救い主と出会おうとしていたんだ・・・・助けて欲しいって願っていたのがこの人だったんだと思うよ」とわたし。

 

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気がつくと時計の針は10時を過ぎていた。

 

10時20分迄の講義だが、最後の10分は、感想などを記してもらう時間。あと数分しかない。

 

おわりに、今のわたしの「渇き」について語ることにした。

 

「4月初めの最初の土曜日、地吹雪の翌日・・・・・・妻が転倒・骨折して・・・・悩んでます」と語った。

 

「もしも、森先生、こうしたら良いんじゃないですか」という事があったら「自分の渇き」「時代の渇き」への応答の他に書き込んで下さい、と伝えた。

 

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学生さんたちは、心を込めてこう記し応答してくれた。一部抜粋しよう。

 

○私の渇きとはやはり20歳になっても恋人ができないことです。恋愛をするということは自分の人生になくてはならないことだからです。

 

○わたしが思う渇きとは、充実の有無だと考える。・・・・・私の人生は刺激が無く、何となくもの足りない感じがするので、心が渇いているのではないか、と思う。先生は今の生活は充実していると思いますか?

 

○救って欲しい程の渇き、というものが思いつきませんでした。

 

○就活をどうにかしてほしいです。・・・私も足を骨折して手術しているので、奥さんの気持ちはよくわかります。必ず治るということを教えてあげて下さい。

 

○今、ワールドカップが開催されています。日本はコートジボワール戦に負けてしまいました。ネットなどの感想を見ると「○○選手辞めろ」などの心ない言葉が飛んでしまっています。自国の選手が負けても、一生懸命プレーした選手をリスペクトできない人を見ると、悲しい気持ちになってしまいました。

 

○《渇きがあるとしたら》今、授業が多く、課題もいっぱいこなさなきゃいけなくて、自分の時間が限られていること。悩んでいることがあっても、それを整理する時間がなくて落ちることがある。

 

○私は渇いていません。しかし、良き友、良き親、良き講師に恵まれながら、私は三食しっかり食べ、暖かい布団で眠れるにもかかわらず、怠惰で無気力です。これは渇きというよりも腐敗と思われます。私は腐っています。

 

○《自分にとっての渇き》自分の時間が少ない。むしろ無いに等しい。高校と違って趣味で話せる人がいない事。やりたい事は多いのに時間が無い。

 《時代の渇き》未来への不安。就職氷河期や国の政治への不信感。

 

○おくさんの今の支えは森先生だけだと思うので、まずはどんな話でもうんうんと聞いてあげて下さい。長い戦いになると思いますが、がんばって下さい。

 

○自分の渇き 一人暮らしにはもう慣れたのですが、実家にいたときの騒がしさがないのが、自分の心を満たさない気がします。

 

○自分の渇きは、特に今は無いと思います。新しい事を始めましたし、充実しているからです。ですがこの充実に慣れてしまったら、「渇き」というのは表れるかもしれません。

 

○もし自分に渇きがあるとしたら、自分の感情を表現できないという渇きがあると思う。・・・・時代の渇きがあるとして私が考えたのは、人間関係の在り方があげられると思う。昔は人情溢れた人間同士のやり取りがあったと感じている。しかし今は、SNSの普及や色々な物の進化によって人間関係がぎすぎすしているように感じるので、そこが渇きであると考えた。

 

○自分の渇き 最近特に大きな問題があるわけではないけど、心が空っぽでお金や食事で満たせることはないと分かって居ても、お菓子を沢山買って食べちゃいますね。

 

○自分の渇き 自分がしたいことができない渇き。会いたい人に会えない渇き。

 

○「渇き」とは違うかも知れませんが、やりたい事が色々あるのに、時間が足りないと思う事があります。時間に追われているというか、必要な時に使えない事があります。

 

○感想 サマリアの女とイエスのように、偶然に、救い主と会うことができるとうれしいなと感じました。

 

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講義を終えたあとにも、大学の自販機のあるソファーに座って、プリントに書込まれた学生さんたちの思いをながめていたのだが、今、あらためて打ち込んでみて感謝だな、と思う。

 

わたしは今、水を飲んでいるわけでもないのに、なぜか、昨日よりも渇いていない自分を感じるのだから。

 

次週は、このBlogを切っ掛けに授業を始めようかな。end

 

 

2014年

6月

14日

2014年6月14(土)№141 『 東芝PC安心サポートに助けられ・・・ 』

6月8日(日)から始まった一週間も、はや土曜日。

 

いつもなら、このBlogへの書き込みは月曜日にすることが多い。だが、今週はそれどころではなかった。

 

東京から西川重則先生をお迎えしての観光案内、礼拝。そして、ピースウォーク稚内での講演。夕食のお世話。さらには、月曜日朝からの、マンツーマンに近い憲法の特別講座。そして、聖書頒布活動のギデオン協会の熱い信仰をお持ちの方々を迎えての応対。

 

そんなこんなで、さすがに体力的にもフーッとなった時に悪夢が起きた。

 

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たぶん、火曜日くらいだったのか。今振り返って見ると、何やらマウスの動きが渋いなぁ、と感じていたのが予兆のような気もするが、使い慣れた我が家のPC。

 

席をしばらく離れていて戻って来たら元の画面にならなくなっていた。いやそれどころか、ウンともスンとも言わなくなった。

 

仕方ないから、電源をブチッと抜く。

 

こうして、ハードディスクに傷をつけながら再起動を掛けるのだが起動しない。

 

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パソコンのOSはWindows7。

 

購入してか4年近く経過。

 

Windowsのロゴが表示するところまでは進むけれど、それ以上パソコンは何かを考え続けて進まない。

 

我が家は何の導きか何台かのDynaBookを使っている。東芝PC安心サポートさんに電話が出来ない時間だったため、妻が隣のパソコンで、あれこれと調べてくれてチャレンジするが、どうしても解決出来ない。

 

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翌日。そうだ水曜日か。大学の講義を終えてから、フリーダイヤルの東芝PC安心サポートさんに電話。

 

最初に出た方に「こういう状態にならないようにするにはどうしたらいいの?」と質問。

 

すると、「パソコンから離れるときには、シャットダウンして下さい」と言うではないか。

 

「それは、何分くらいのことを仰っているの?」

 

「しばらくお待ちください・・・・お待たせいたしましたが・・・・」

 

のような会話があって、問題解決にならない。どうも、まだお仕事に就かれて間もないのか。その他の質問にはお答えにならないのだった。

 

「あのー、あなたの上司に代わっていただけますか?」とお願いして出てきてくれたのが、「スーパーバイザーの○○でございます」と挨拶された方だった。

 

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東芝PC安心サポート。

 

常日頃から不満はないし、今も不満はない(大概のことは教えてくれて料金無料は有り難い、他でもフツウかしら?)。だけど、最初出られた方が経験不足だったのだろう。

 

「先ほど、席を離れるときに、シャットダウンを・・・・と言われたけれど、そうなんですか?」と聞き直す。

 

「申しわけございません。・・・・・わたしは自分のパソコンはスイッチ入れたままです」と言うではないか。

 

そうか、そういうものかと安心。

 

妻からも、「つけっぱなしにしているから、そんなことになるんじゃないの」と言われていたので、ひと安心。

 

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それからが長かった。結論的には、購入したときと同じ状態にするリカバリー作業が必要となったのだった。

 

しかし、今回は、東芝PC安心サポートのスーパーバイザーさんの存在と、パソコンに組み込まれていた「レスキュー」というプログラムによって本当に助けられた。

 

心情的には、西の方には足を向けて寝られない程の感謝。

 

どうも、今どきのパソコンは、Windowsが起動していなくても(他社はどうかわからないけれど)「レスキューprogram」なるものがインストールされているようで、デスクトップ上に残っているデータは、容量の大きな媒体さえ準備できれば、そこに保存。

 

そして、リカバリーさえ出来れば、パソコンは不調になる前に近い状態で使えるのだった。

 

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とは言え、ここに至るまで、ほんと、時間が掛かった。体力も気力も要った。

 

recoveryも大変だけれど、ウイルス対策ソフトのインストール他、ワープロ関連・聖書関連ソフト・フォント・インターネットの設定等々。何と時間の掛かることか。

参った。

 

だって、それらのソフトもインストールすれば、更新プログラムがある。待つことの繰り返し。説教のヒントが得られそうなほどだ。

 

いや、Windowsのupdateだって膨大だった。今も、ダイナブックに元々入っていたソフトが4年弱の間に様々に更新されていて、ダウンロードが繰り返される。

 

その他にも、各種、自分のお気に入り設定があるのだから・・・・トホホ。

 

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分かち合えることがあるとしたら、よく言われることだけど、次のようなことか。

 

たいせつなデータは何らかの形で消えてなくならないように保存しておくこと。幸い、今はDropbox他、いろいろなクラウドがあるのでそれを上手に利用しない手はない(と思う)。

 

使いこなしているとは言えないけれど、助けられているのは確か。インストールが必要なソフトは直ぐに使えるように秩序正しく準備しておくこと。

 

インターネットのお気に入り(もしかすると、Google chromeは必要ないかも知れないが)も、どうしても必要ならば、メモしておくこと。お気に入りのBlogやインターネットの正式名がわからずチェック出来ない事態発生(ま、あんまり大したことではありません)。

 

パソコンは予備の機器を一台は備え、ほぼ同じ状態で利用しておくこと(お仕事に使っている方ですが)。

 

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何だか、何年かに一度、こんなことが起こるなぁ。

 

つまり、パソコンはいつクラッシュしてもおかしくない、ということ。

 

でも、それでも、年度末~年度初めの一番忙しい時を外して、あれこれ、一段落というところに近い状態で壊れたのは、神さまの憐れみか。

 

日々の仕事を大いに助けてくれるパソコン。便利だけど世話になりすぎていて困ることが多いのだった。

 

親しい皆さん。

 

パソコンとのお付き合いというか、共なる歩み。どうぞお気をつけて。ほんと、他人事ではなく、「(*_*) マイッタなぁー」はほぼ確実にやって来ます。お気をつけてお過ごしを。

 

ごきげんよろしゅうに end

 

 

2014年

6月

02日

2014年6月2(月)№140 『 あなたは うつくしい 』

おばあちゃんのチューリップです。あか・しろ・きいろ と言うような色ではなくて、大人の色なのです本当に。心底感動!
おばあちゃんのチューリップです。あか・しろ・きいろ と言うような色ではなくて、大人の色なのです本当に。心底感動!

去年・2013年の1月か2月。そう稚内の真冬だった。この年は、何十年ぶりかのすごい雪が続いた冬だった。

 

家が雪の重みで危ないと思ったのだろうか。なんと90歳に近いはずのおばあちゃんが、スコップを片手に2階の窓から勇ましく雪下ろしをしていたのだった。

 

それが、お姿をお見かけした最後だったと思う。5メートル程の道路を挟んで、隣にお住まいだった独り暮らしのおばあちゃんである。

 

その後、ぱったりと姿を見なくなり、息子さんがやって来て「母は入院中ですが・・・・」とお話しになった。やがてご逝去の報に触れた。

 

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おばあちゃんのこと。

 

教会と牧師館を一日に何度も行き来するわたしは、天気の良い季節には、そのお姿をよくお見かけした。

 

おばあちゃんの家の前には、“北海「道」”が管理する、猫の額よりはだいぶ広いけれど、細長い空き地がある。おばあちゃん、道からの許可を得て、そこにお花を植えて育てるのを楽しみにしておられた。

 

当然、草むしりもせっせとしておられた。それを見ると、わたしは焦ったり、感心したりしていたものだった。

 

少し耳が遠くなられていたようで、声をかけても、聞こえないことが幾度もあったし、土いじりに集中しているお姿を見かけ、黙って通り過ぎることもあった。

 

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北海道の、特に道北の、さらには宗谷の春はかなり遅い。今年も今頃がチューリップの季節だ。

 

おばあちゃんが丹精込めて育てていたチューリップ、見事に満開である。

 

それが本当にきれいなのである。

 

うつくしい、という言葉がぴったりか。

 

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よそのお庭やお花畑でも、もちろん、チューリップを見かけることがある。

 

けれど、おばあちゃんのチューリップは、ひときわ可愛らしく、うつくしいということが、けさ分かった。

 

昨晩寝る前に、(おばあちゃんに断って(笑))妻と二人で頂いて来た。それを今朝食卓であらためて眺めた。

 

ほれぼれしてしまう。そしてカメラを構えた。

 

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おばあちゃんは、天国に居られるわけだから、球根の植え替えというのか、そういう手入れは昨年もされてはいない。

 

だからかも知れないけれど、少し、小ぶりな花を咲かせている。

 

そして、それだからかも知れないのだが、その小ぶりさが、繊細さを際だたせ、わたしは感動する。

 

 

デジタル一眼レフカメラで撮影したこの写真がおばあちゃんのチューリップだ。写っている色合いはかなり本物に近い。

 

単色ではなく、微妙に色合いが混じり合っていて、ため息が出るほどうつくしい。自然はすごいなと思う。

 

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きのうは6月1日、日曜日だった。

 

礼拝、そして、たのしい昼食を頂き、教会役員会を終えたのは15時過ぎ。

 

16時から「ピースウォーク稚内」の会議が始まるので、急ぎ足で教会から牧師館の我が家に戻ってきた。

 

すると、引っ越し屋さんのトラック2台。おばあちゃんのお宅と我が家の真ん前に止まり、引っ越しの荷物を、おばあちゃんが暮らして居た家に運び込まれていた。

 

昨年、売りに出されていた家に、新しいご一家が越してこられたのだ。

 

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ここ2ヶ月程、リフォームを請け負った業者さんが出入りをしていた。水回りの設備屋さん、窓屋さん、大工さん、ガス屋さん、ペンキ職人さんが、一人、二人、三人と入れ替わり立ち替わりやって来た。

 

そして、数日前は、おばあちゃんのお家のお庭に小型のショベルカーが来て、花壇は綺麗さっぱりなくなってしまった。

 

そこにも、うつくしいお花が幾種類も咲いていたのだけれど、引っ越して来られたご一家は、二代目の車を置く場所を確保する必要があったらしい。

 

今は水道メーターが地面にニョキッと残っていて、黒の軽自動車が置かれている。

 

****************

 

時はうつり、人も移り変わる。

 

おばあちゃんは天国。

 

でも、チューリップは今年も咲いている。

 

おばあちゃんのことを、おそらく知らないであろう、お引っ越しされて来られたご一家は、その窓辺からチューリップをご覧になるだろう。

 

きれいだねぇ、と口にしながら。

 

季節がもう2歩ほど進み、稚内の夏が近づくと、今度は「芝桜」が咲き始めるだろう。もちろん、おばあちゃんが丹精込めて手入れしていた芝桜だ。

 

****************

 

そういえば、きのうの礼拝では祝福の話をした。

 

族長ヤコブ。彼の最晩年の最期の日々に遺していったのは祝福だったと。

 

そうか。おばあちゃん、ありがとう。

 

ぼくは嬉しい。あなたを支えたお花たちが、あなたが心を注いだお花たちが咲き始めると、わたしの心は、ホッとしますもの。

 

大地はあなたの遺してくれた祝福を引き継いでいます。そして、わたしたちの心もまた。

 

****************

 

この賛美歌を思い出す。

 

『 讃美歌21 』 575 「 球根の中には  (Natalie Sleeth 作詞)

 

1.球根の中には 花が秘められ さなぎの中から いのちはばたく。

  寒い冬の中 春はめざめる。 その日、その時を ただ神が知る。

 

3.いのちの終わりは いのちの始め。 おそれは信仰に、死は復活に。

  ついに変えられる 永遠の朝。 その日、その時を ただ神が知る。

 

時はうつり、人も移り変わる そして わたしたちの人生はみじかい。

 

でも キリストは永遠。end

 

 

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