2013年

5月

30日

2013年05月30日(木) №46 『 増補版 牧師室便り №14号 』

「ぜーんぶこれ、繋(つな)がってるんですねぇ」

 

木曜日にある「聖書の学びと祈り会」の昼の部に出席して居られるO洋子姉が、時間の最後に聖書を指差しながら口にされた言葉だった。

 

わたしは小さな感動を覚えた。わたしがその日、語ることが出来なかった大切なことを、ズバッとひと言で口にしてくださったからだ。聖書を自分一人ではなく幾人かで読み、語り合うことの醍醐味をあらためて思い起こさせてくれる瞬間だった。

 

牧師として仕えさせて頂く中で、“たのしいなぁ”と感じる時がたまーにある。しばしばとも言いたいが、そればかりでもないのも現実だ。でも、毎週やっぱりたのしいのが「聖書の学びと祈り会」の時間だ。

 

わたしは教えるだけの役割を担っているのではない。むしろ、参加者からの質問や気づきを通じて教えられるし、広がりを感じるのだ。

 

だから、トンチンカン?な質問は、いつでも大歓迎という気持ちで居る。

 

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日本聖書神学校の縣洋一神学生が、3月に春の伝道実習においでになった時に、こんな話をしたことを思い出す。

 

「僕は、《聖書の学びと祈り会》で大事にしていることがあるんだ。それが何か、参加して考えて見て」と伝えたのだった。ところが申し訳ないことに、うっかり、その後その話題を口にしないまま伝道実習は終わってしまった。

 

つまり、縣神学生に答を伝えないままだった。

(業務連絡)縣さーん、ここに一応、あの時の答を記しておきますよー!

 

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実は、わたしはこんなことを考えていた。

 

「聖書の学びのために自分が準備していることとは違う、思いがけない展開になる時間が大切なんだ。無駄だと感じるような、参加者のおしゃべりを大事にしたい。だから、話が横道にそれたら、それたまま、なるべく口出ししない」。

 

今の稚内教会の祈祷会、始まりや終わりがダラダラとすることがある。でもそれでいいんだと思っている。

 

人生振り返って見ると、無駄や脱線や遠回り、そして寄り道している時にこそ、色んなことを学ぶ機会となっているからだ。若い頃のわたしだったら、「はい、時間ですから始めます」みたいな調子で、会を進めていたような気がする。ま、それはそれで大切なのだが。

 

つい最近、稚内教会の創立時、つまり60年近く前に、道北地区で宣教師として活動されていたハウレット宣教師(カナダ合同教会から)の英語で記されていた貴重なレポートの内容について、道北地区の仲間から聞いた言葉がある。

 

ハウレット宣教師。各地の家庭集会で聖書研究を始めると、反応がとても悪くて、頭を抱えていたそうだ。

 

そこで始めたのは、参加者に対して、「今、悩んでいることはどんなことですか?」「家庭の問題でみなさんの前でお話できることがあれば」というようなことを先に話題にしてみたのだという。

 

すると、参加者は生き生きとした感じで語り始めたという。

 

そして、ハウレット宣教師は、参加者の悩みに即したみ言葉を紹介しながら会を続けたというのだ。おそらく、昔も今も変わらない真理がそこにはあるだろう。

 

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閑話休題

最近、稚内市立図書館にお世話になることが多くある。大都会からすれば本当に小さな本屋さんが数軒あるだけで、医療の過疎と共に、稚内のすこし辛い現実の一面でもある。でも、その本屋さんも一所懸命がんばっておられるのがわかるので、ぜひぜひ、応援しなければいけない。

 

稚内には本屋さんが少ないなー、と決め込んでしまっていたわたし。恥ずかしい自分に気が付いた。立派な市立図書館があるということにである。

 

稚内学の会場になっているのが市立図書館だ。それはそれは美しい建物であり、快適な空間なのだ。なのに、本をじっくり見ることをしていなかった。愚かしいこと。

で、市立図書館の新刊書の棚というのがある。そこは宝の山に感じる。いやいやその新刊の棚以外も有り難いのだが・・・。

 

例えば、絵本のような体(てい)裁(さい)の『農家になろう① 乳牛とともに』(農文協編)に先日出会った。牧師仲間に聴いてみると、知る人ぞ知るというか、道北という地域柄か、どうも話題になっていた本のようだ。

 

『農家になろう① 乳牛とともに』を読むと、稚内教会にも居られる酪農家の一年、あるいは一日。そして、牛たちの一生を思いがけないかたちで知ることが出来たのだった。いやー、これは有り難い。

 

ただし、過日、このBlogにも記したことだが、酪農家の生活は決して決して甘いものではない。仲間との助け合い、励まし合いがなければやっていけないという声を最近も聴いた。また、離農されたある男性が「牛の世話をしているときに、“闇”が見えるんだ」と言われた言葉が忘れられない。

 

ちなみに、稚内の市立図書館の場合、一度に10冊まで借りられる。誰もが《おとな買い》ならぬ《おとな借り》することが公に認められているのだ。10冊に1冊位は確実に面白い本が出てくることを思うと、安心して、棚から本を取り出すことが出来る。これを全て購入、あるいは、立ち読みしていたら、えらいことになってしまう。

 

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豊富町の兜沼在住の会員・J子姉のご主人のお母さまキヨさんが、5月の初めに89歳で召天され。キヨさんのつくった豆が最高にうまいねぇと、牧師館で話していた矢先の召天だった。

 

わたしはお通夜に列席させて頂いた際、出逢った言葉が心に残った。お経を読まれたご住職さま。講話の最後でキヨさんへの尊敬の念を表しつつ、「“かあさん”はお寺の奉仕をたいせつにしていた」と、列席者に紹介して下さったのだ。幾人もの方がうなずいていたように見えた。

 

実は、わたし、豊富(とよとみ)のI宏明さんのことを我が家で「豊富の父さん」と呼んでいる。もちろん敬愛の思いを抱きつつだ。

 

稚内ならではなのか「とうさん」「かあさん」という語感に、これまで暮らしてきた地方では感じたことのなかった温もりが感じられるのだ。個人的にはそれは嬉しい語感だ。何とも言えない良いこの語感。これからも大切にしたいなぁと思っている。

 

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日本ハムファイターズの栗山英樹監督のことを前号で触れた。彼は勝負に徹しきれないところがあるように見える。だから惹かれると。

 

そうしたところ、オリックスに放出してしまった糸井選手の不在が影響しているのか、それともピッチングコーチがジョニーに交替したからか、あるいは、head coachが非力なのかは不明だが、心配していたことが起こっている。な、な、なんと、5月になって連敗が9試合続いてしまったのだった。

 

あらあら。人の良さそうな栗山監督。眠れない夜を過ごしているというNewsが伝わってきます。ここは一つ、ふてぶてしさを身につけるchanceとして頂きたい。牧師にもそれが必要かはわかりませんが。

 

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教会で今年度から始めた“利尻昆布バザー”が動き始めた。

 

詳しくは『こんぶ通信 創刊号』をご覧頂ければと思う。とりわけ遠方の皆さま、こんぶの応援ヨロシクお願いいたします。いやいや近くてもお願いします。ただ、まだ生産が追い付かないんですねぇ、不慣れな家内工業のため。

 

それでも、各地から、好印象ですよ、との声が届いているのは本当の所だ。そして、「応援するよ」「わたしが○○地区のアンテナショップになります」のような声まで届き始めているし、道北地区の集まりに、利尻昆布バザーの品を抱えていくと、すこしオーバーに言うと、みんな「買いますよ」「これ、うち全部もらうよ 10個」みたいな反応なのだ。

 

「えーっ、ホントっすか!」という小さな驚きと、あー始めてよかったなぁという気持ち。そして、これはやっぱり、神さまが働いているとしか思えない、という感じが途切れることなく続いている。

 

既にわたくし、日本初の“こんぶ牧師”になる覚悟もできたのだった。だしこんぶのような形で、すべてを出し尽くし、目立たぬ形でお役に立って、最後は佃煮となり、ヨロコンブ(デ)頂ければ、牧師としてのわたしの本望かも知れない。

 

ある遠方の友が、こんぶの作業の時にと特製エプロンを作り始めてくれていたりするのだ。いやはや。名刺も新たに作り直さなければいけないか(笑)

 

そしてまた、あるご婦人が、こんぶの作業をしているときに、話し出す前から笑い転げそうになりながら「森先生、説教はいいから、海に行ってこんぶ漁して来てください・・・なんていいだしちゃったりしてねぇ」と言っておられた。

 

1年前にはそんな笑顔は考えられなかったので、これまた本当に感謝なことだと思う。

 

はたしてわたしは、何をとる漁師として召し出されていたのか。その召命が問われております(^^♪) チャオ!

2013年

5月

28日

2013.05.28(火)№45 『 その名は“コルネリオ” 』


今号は、聖書が出てきたりして、珍しく?説教調。体力のない方は今号はどうぞ読み飛ばしてください。しかも長文。あしからず・・・・。

 

いつのことだっただろうか。ある会合の席でお話を聞いていて、わたしは涙がこぼれそうになったことがある。他の方たちは冷静でいたが、わたしにとっては、揺さぶられる出来事だったのだろう。何かを語ろうとするのだが、言葉に詰まってしまった。

 

そのお話とは、少しだけむつかしい言い方をするならば、お話をされたきょうだいの“実存”のかかっている内容であり、言葉だった。

 

幾つかの重要な課題をよく準備して冷静に提起してくださったのだが、話の流れの中で「洗礼名=Christian name」についてもお話をされた。そのきょうだいは、「自分はその名前を大事に心に抱きながら、クリスチャンとして歩んで来た」という事も含めてお話しされたのだった。

 

その方のChristian nameは「コルネリオ」(コルネリウス)という。

 

自衛官として40年近く勤めあげられて無事に定年を迎え、次の新しい人生のステージを既に踏み出されている方だ。自衛官のキャリアの最後には、部下300名の指揮官としてお働きになっていたと聴いた。

 

近い所では、東日本大震災の被災地支援に部下と共に2ヶ月間お出かけになったそうだし、イラクがらみの海外の危険な任務に部下を送り出す立場にもあったとのこと。その他、雲仙岳噴火、阪神大震災、中越地震などなど。

 

部下の命、そしてそのご家族に関わる重要な命令を、(上からの指示があるとしても)自分が直接伝えるというのは、誠実な方であればあるほど、祈り抜きではなせない事だろう。

 

わたしたち、洗礼名はカトリックや聖公会では馴染み深いものだと知っていたが、10年近く前に洗礼を受けたとお聞きしたきょうだいは、プロテスタントの方だ。

 

コルネリオは、『使徒言行録(使徒行伝・使徒の働き)』の10章に登場する〈兵士〉だ。しかし、自衛官である自分がクリスチャンであることが、もしかすると自分の所属する教団や地域の仲間たちの間では、受け入れられていないのではないか、という思いをある時からいだき始め、ずーっと祈り続けてこられた様子だった。

 

その時の会合の中で話を聴いていた者の多くは、そのきょうだいの思いを、これまでの交わりの中で十分におもんぱかることが出来ていなかったことを自覚させられる機会となった。

 

実際、しばらくの沈黙があり、さらに、受け止めようとするためのぎこちないやり取りと言葉、そして時を重ねながらその会合は進んでいった。

 

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コルネリオが登場する『使徒言行録』にはこう記されている。

 

10章1節以下。

【10:1 さて、カイサリアにコルネリオ(ウス)という人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、10:2 信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。】

 

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ある「聖書辞典」とわたしの思いと言葉をすこし補って説明すると、コルネリオとはこういう人物である。

 

◎コルネリオ(コルネリウス)
カイサリアに住むローマの部隊の百人隊長。所属する「イタリア隊」は、ローマ市民から成る補助部隊で、紀元1世紀にシリアに駐留していたことが碑文から確かめられている。使徒言行録10章によれば、彼は敬虔で、全家族と共に神を恐れかしこむ者である。

 

コルネリオは割礼を受けて律法の規定を守るいわゆる改宗者ではなかった。しかし、ユダヤ人に好意を寄せ彼らの神を礼拝する異邦人の一人であったと思われる。

 

コルネリオは、幻で神の御告げを受け、ヤッファに滞在していたペトロを招く、そしてペトロはコルネリオらに洗礼を授ける。この出来事は原始教会が異邦人伝道に踏み切るように励ます画期的事件だった。

 

原始キリスト教会の異邦人伝道は使徒パウロを中心にして強力に推進されることになるが、実にその端緒は、ペトロに導かれたコルネリオの回心にある。

(『新聖書辞典』参照)

 

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コルネリオについて改めて思い起こし、また、辞典で確認してみたわけだが、この人の存在の貴さを教えられる。

 

兵士たちの指揮官だったコルネリオ。彼が導かれて洗礼を受けなければ、初期キリスト教の伝道の展開はまったくことなるものになった可能性すらあったことがわかる。

 

上の辞典の末尾に、【原始教会の異邦人伝道・・・その端緒はペトロに導かれたコルネリオの回心にある】通りなのだ。

 

実に、百人隊長のコルネリオ抜きで、異邦人(ここでは、今で言うところのヨーロッパ社会とも言える)伝道は考えられなかったことになる。

 

自衛官であったその方にとって、コルネリオほど相応しい名前はない。

 

聖書の時代のローマ皇帝の支配下にある兵士が、その強大な権力の元で生きていこうとするときに、世の力と神の支配に、どこかで折り合いをつけながら歩んで行かなければならないジレンマがあったことは容易に想像できる。

 

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わたしは10代の頃に、自衛官の五訓というのをある場所で知ることがあった。

 

              一 使命の自覚
              二 個人の充実
              三 責任の遂行
              四 規律の厳守
              五 団結の強化

 

おそらく、コルネリオというChristian nameを持つきょうだいは、上の五訓を土台としながらも、さらにまた、主イエス・キリストからのみ言葉を、神からの命令の言葉としてキリスト者として誠実に生きてこられのだろう。そして、退職をされた今も変わらず、そのアイデンティティーをしっかりと抱きながら歩んでおられる。

 

その名は「コルネリオ」。名はその人を表すもの。それだけで証となる。

 

ちなみに、お連れ合いは「デボラ」というお名前をもっているとのこと。お子さんには、「おかあさーん、おかあさんの Christian name、ゴジラやモスラに近い感じがするのは、おかあさんらしいねぇ!」と言われたそうだ。はて、その意味はいかに。end

2013年

5月

22日

2013.05.22(水) №44 『 朝、大学の講義で賛美歌を歌ったら 』

稚内北星学園大学のキリスト教概論の講義。水曜日の一限目に担当させていただいている。今期は20名弱が登録。一限目で、早起きはつらいからか、きょうは10名程の出席。もう、飽きてしまったかな。

 

ただ、これくらいの人数の方が、教える側としては、向き合うのにちょうどよい、というのも本当のところだ。

 

キリスト教とか聖書に対して、もともと積極的な関心や興味をもっておられるわけではない方たちに対しての講義。

 

これはやり甲斐がある。とても楽しい時間だ。彼らに真実な何かを伝えられることが出来るか否か。

 

見方を変えれば、これは一種の“路傍伝道"の修行の場かも知れない。

 

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きょうは6回目にして、ようやくイエスの誕生をめぐる所にたどり着いた。学生さんたちも、教科書指定した新約聖書をおおむね手元に置いてくださった。

 

いよいよ聖書の開き方を伝え、「(新)100」というのは、新約の100㌻という意味ですよとか、大きな数字は【章】、小さな数字は【節】ということなども言葉にする。

 

新約の冒頭。マタイによる福音書1章の系図の意味などを語り、ルカによる福音書1章のマリアの受胎告知の場面を読んで、すこし解説した。

 

その後、“フラ アンジェリコ"や“レオナルド ダ ビンチ"(彼らいずれも1400年代の人)の受胎告知の良く知られている美しい絵画のカラーコピーを配布。

 

羽根が付いている人物=天使について語ったり、マリアが青い服を着て描かれることが多いのがこういった絵画の伝統だよ、等とお話した。

 

「○○さん、あなたの背中に羽根が生えていない?」「羽根の代わりに、シッポがついてるかもよ」等と軽い言葉を交わしながら授業は進んだ。

 

なぜ、キリスト教の歴史の中で絵画が広く用いられるようになったのか・・・。絵の作者は単に絵を描きたいからそうしたのか。そんなこともいっしょに考えたりもした。そして、グーテンベルクの活版印刷技術(やはり1450年頃活版印刷技術完成)との兼ね合いなどにも触れた。要するに、聖書に関係する絵画は、当時の聖書そのもの、あるいはそれ以上の役割を果たしていたのだ。

 

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その後、以前から配布していた、受胎告知の場面の賛美歌のプリントから1曲を選んで、ヒムプレーヤー(賛美歌自動伴奏機)で紹介することにした。

 

この日、紹介したのは、讃美歌21-190の『ヨセフのいいなずけ』だった。

 

『きよしこの夜』や『アメージンググレイス』ならば、どこかで聞いてメロディーとして彼らの耳にも入るだろう。しかしこの曲は、教会の中でもまだまだ歌ったことがない人がたくさん居られる曲のひとつ。いわゆる現代の賛美歌で、おそらく、Hymn Explosion(さんびか 爆発)の中の一曲。

 

もともと、讃美歌を歌う習慣などない学生さんたちと「せーのー さん ハイ」で歌う予定は無かったので、1節だけメロディーを流して聴いてもらった後に、わたしはひとり歌いだした。

 

1 ヨセフのいいなずけ マリアのもと・・・
2 めぐまれた女性よ 喜びなさい・・・
3 マリアはそれを聞いて 不思議に思う・・・
4 あなたには子どもが 生まれるでしょう・・・
5 どうしてそんなこと ありえるでしょう・・・
6 マリアはそれを聞いて 答えました・・・

 

結局、全部歌ってしまった。所々、完全に楽譜から音は外れていた。マズイ歌を聞かせてしまったものだ。また、シマッタ(∋_∈)が起きたかなぁ、と思いつつ、先に進んだのだった。

 

8時50分から90分の講義。最後の10分間は、その日の講義の感想や質問、気付きを、ちいさな大学指定の試験用紙のような紙切れに記入していただいている。

 

この日も、じゃあ最後に、記してくださーい、と伝えて、授業は終了した。

 

授業後、飲み物の自動販売機が置かれているホールの長いすに座って、何かで喉をうるおしながらクールダウンするのがわたしの一つのパターン。そしてそこで、提出していただいたものを眺めるのだった。

 

きょうの出席者11名のうちで、3人の方が讃美歌に関連して応答してくれていた。

 

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○Aさん 女性
 朝から讃美歌を聴くと すがすがしい 気持ちになれた。
 ぜひ 他の歌も 聴いてみたいと思った・・・・・・・・。

 

○Mさん 女性
 マリアがどんな人なのか気になります。うちの家系図にも名前がなく、~の娘 と書かれていることがあるので、きっと、マリアもそんな感じだと思います。もっと他の聖歌? 賛美歌も聴きたいです・・・・・・。

 

○Yさん 男性
 今日はヨセフのいいなずけを聴いたが これまで いくつかの賛歌を聴いてきた。そこで思ったのが 絵は人々に伝えるために描かれた。
 では 歌は なぜあるのか?
 「わかりやすくするため」という理由だけなのか。まだ他にも理由があるように思う・・・・・・・

 

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少し驚きだった。もちろん、わたしの歌声を聴いて、引いてしまった方も居られると予想した方が良いかも知れないのではあるが・・・・ でも、嬉しかった。

 

3階から降りて、2階の図書館に立ち寄る。これもまた、よくあるパターン。

 

図書館員のHさんは、図書の情報だけではなく、学生さん達との向き合い方とか、現代学生気質みたいなことをいつもおしゃべりしている方だ。Hさんに三名の反応を手短に伝えた。

 

するとHさん「もり先生、どんどん歌ってください。紹介してください。マタイ受難曲のCDならここにもありますから」と言ってくださったりもした。

なーるほどねぇ。

 

これまで美しい聖書の場面にちなんだ絵画を紹介しつつ、イエスを指し示そうとしてはいたけれども・・・。これからは、もっと、賛美歌や宗教曲を通じて、今どきの学生さん達に向き合うことも、ひとつの大切な道なのかも知れない。

 

いやいや、キリスト教の世界や教会では、昔からよく言われていることがある。聖書の言葉なんかよりも、賛美歌が好きだから教会に来たのです という方が幾人も居られると・・・・。

 

これはまた、たいせつな事実なのであり、ひとつの扉を示してくれているに違いないと思う。「いざ進め」との声きこゆ。end

2013年

5月

21日

2013.05.21(火) №43 『 最北教会の結婚式 お問い合わせから 』

 

稚内教会のホームページには「結婚式のご案内」の欄をつくってから4ヶ月くらい経っただろうか。

 

もう一年前になるけれど、日本の一番北の教会で結婚式を挙げたいんです、というお問い合わせをくださったCoupleが居られた。東京の方たちだった。

 

そして、実際お二人だけでお出でになってとても素敵な結婚式をされた。決して、わたしたち教会の力というわけではない。でも、とてもいい結婚式だった。楽しい出会いだった。

 

準備されたU姉の野の花の飾りがまた素敵で、椅子に飾り付けられたお花であんなに可憐なものは見たことがなかった。ブーケも作ってくださったのも思い出した。

 

遠くの方のみならずなのだけど、最北の結婚式=稚内教会。というような形でお役に立てるならば、それはとても光栄なことだ。

 

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ところで、もう1週間以上前になるが、稚内教会のホームページを通じて「結婚式のお問い合わせ」をくださった方が居られた。

 

概ね、こんな内容だったと思う。

○○在住の○○と申します。
この度、○月○日に日本最北の稚内で結婚式をしたいと思い、インターネットで調べたところ稚内教会を知りご連絡させて頂いた次第でございます。実は私は車椅子の・・・・

 

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わたしは程なく応答した。

 

はたして、わたしたちでお力になれるか、不安なことが一点あります。


実は、稚内教会の礼拝堂は2階にあります。エレベーターもついておりません。少し急な階段を、あがっていくことになります。

 

車椅子をお使いになっているということで、どのように対応できるか、普段、車椅子の方が今の稚内教会は居られないので、予想がつかないことがあります。

 

わたしが おんぶするあるいは、教会の関係者で、車椅子にのったまま 抱え上げる。などのことで 礼拝堂にお連れできればよいですが、それが○○さんの日頃の生活の中で考えて見て、無理だろう、とお考えになるような状況であると、心苦しいですが、わたしたちではお力になれないということになります。

 

申し訳ありません。

 

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結果的には、おだやかにお断りの連絡を頂いたのだった。

 

さて、いちばん大きな問いかけは、結婚式の問題云々ではない。

 

日頃教会においでになっている方たちすら、2階に礼拝堂があることで実はすでに高いハードルがあるのだと思う。エレベーターかそれに変わるものがなければ、礼拝を同じ空間でご一緒することは難しいということである。

 

だれにも開かれた教会であること。誰もが安心できる教会であるためには・・・・。それを願いつつも、簡単にはそれが出来ないことは大きな宿題であることを知らされる問い合わせとなった。

 

かつて、簡易エレベーターを現在の稚内教会に作るとしたら、という検討・調査がなされたという話を聞いたこともある。

 

そうそう。

わたしの敬愛する、豊富の父さんこと・池尻さんのお宅には、北海道で最初にご自身で設置されたという、日立製作所製のホームエレベーターがあったじゃないか。

やろうと思えばきっと出来ることなのだ。

 

お金の問題なのか。信仰の問題なのか。

 

自分が車椅子に乗るようになることだって十分に考えられることだろう。そうでなくても、だんだんと体力が弱っていく方たちが多くなってきているのが、稚内教会のみならず今の日本のキリスト教会の現実なのだから。

 

小さな出会いをたいせつに。それを心に留めていたはずなのに。神さまは私に、そして教会に、心構えをお尋ねになっているのだ。

 

いつもながら遅ればせなのだが、ようやく、いま気が付いた。end

2013年

5月

20日

2013.05.20(月) №42  『 せんせい、わたしも祈ります 』

 

稚内から車で130㎞の所にある、北の枝幸町・歌登のHさんご夫妻のお宅で、稚内教会は何十年来、定期的に家庭集会を行っている。

 

というのも、酪農家のHさんにとって、日曜日は教会へというのは、相当にたいへんなことだ。

 

何しろ、搾乳の仕事は待った無しであるから、早朝そして夕方に毎日それが続く。もしもそれで礼拝となると、お仕事の合間に、どんなに飛ばしても片道2時間半、あるいは3時間はかかる稚内教会への道を猛進することになる。

 

さらに、礼拝が終わってからすぐに家路に着いたとしても、そのあとすぐに搾乳ということを考えると、「クリスチャンなのだから 毎週日曜日は、どうぞ礼拝に」とは簡単には言えない。

 

まして冬場のオホーツク海沿いの地吹雪や雪路を考えると、危険極まりない。だからして、家庭集会はとても大切な時間になる。あるいは礼拝の代わりの時間でもあるので、さいごはいつも、祝祷して終わっている。

 

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余談ながら、歌登に向かう時は、かならず“枝幸”の町の中を通る。そこで今日は、カニの漁獲量ではたぶん日本一の“枝幸漁港”に立ち寄って写真を撮ったりして少しだ遊んだ。「気ままフォト」にアップしたので、よろしければどうぞお立ち寄りくださいませ。おっと、さらに家庭集会の写真も撮って、その写真は、教会ホームページの「写真館」にてご覧頂けます。

 

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さて、創世記の1章から聖書のメッセージを話すことにした。最近、教会の礼拝で創世記を扱い始めて居るので、歌登でもぜひと思ったのだった。

 

1章の終わりで、神が天地創造の6日目に人をつくられ、そして【見よ、それは極めて良かった】=【it was very good.】と言われたことを伝えた。

 

礼拝説教では触れなかったことを付け加えて、わたしは関連してこう語ったのだった。

 

「わたしたちは、自分自身にだけこの言葉が語られていると考えるのではなく、家族に対してもそれが語られているということ、あなたはとっても素晴らしいんだよ、その思いをしっかりと抱きつつ歩みたいですねぇ」と。

 

すると、H姉がほろりと涙を落とされた。

 

それに気付いたわたしも涙がこぼれそうになった。わたしはこれでメッセージはお終いにしようと決めて簡潔に祈った。

 

では、賛美歌を歌い・・・と口にしたときだった。

 

わたしは少し耳が遠いところがあるので、すぐに聞き取れなかったのだが、「せんせい、わたしも祈ります」とH姉が言われたのだった。

 

それだけでなく、「美しい大地は(賛美歌21-424)を歌いましょう先生」と言ってくださったのだった。

 

この賛美歌、確かに創世記1章にはぴったりの、新しい時代の曲なのだ。まだ、稚内教会に赴任してから取り上げて居なかったのだが、パソコンをまだ十分に使いこなしていないというH姉なのに「“You Tube" で見つけて練習したんです」と教えてくださったのだった。

 

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1954年版の賛美歌には入っていない、新しい感じの賛美歌はあまり好まれないのでは、と勝手に決め込んでいたわたしは自分を恥じた。

 

申し訳ないことである。

 

賛美歌というのは、歌ったことのない時は、誰にとっても全てが新曲なのだ。だとすると、あまりおそれないで、わたしたち、さまざまな賛美歌にチャレンジするべきなのだろう。

 

さらにさらに、祈りも、イエスさまが二人または三人が・・・と語られたことをもっともっと大切にしたいものだと、これも考えさせられる時となった。

 

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体重700キロ前後の牛たちとの向き合い。それはとても過酷な面があることをご夫婦でお話くださった。体力と気力を振り絞っての日々であることが、この一年でだいぶ分かってきた。

 

「いつも息を抜けない。常に何かが起こるかもと思うと、安まらない」
「牛に足を踏まれるんだよ。牛は決して人の足を踏まないようにと除けないからねぇ」
「牛は人を見るんだ」「わたしは舐められてるんです」
「やっぱり畜生だからね、危険だよ」
「夫婦二人でなければ、就農の許可は下りないのがこの仕事」
「もう、体力的に限界だね」
「朝晩、あっちもこっちも痛いって言ってる」
等など。

 

他にも幾つものことを語られた。それは別に、愚知を言われるのではない。すべてを受け入れつつ、ある意味、たんたんとお話されたのだった。

 

去年のクリスマス前に、同じ歌登の酪農家のたいせつなお友だちのご主人が、800キロ程ある牧草ロールの下敷きになり、倒れているのを奥さまが発見。ご主人は事故死された。なかなか仕事から戻ってこないので、携帯電話を鳴らしてみたらロールの下から呼び出し音が聞こえたというのだった。本当に言葉がなかった。

 

その後、ひとり遺された奥さまは離農することに・・・、と3月末にうかがったが、本当に厳しい仕事なのだと思う。

 

Hさんご夫妻「どんな仕事でも、みなさんそれぞれに大変なのさぁ」と言われていたが、夫婦がone setで、はじめて何とか仕事が出来る状態であって、それが崩れると直ちに離農とは。苛酷だ。

 

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「せんせい、わたしも祈ります」

 

そのようにH姉が言われたのは、祈らなければ生きて行けないという、ごくごく自然な思いからだったのだろう。

 

搾りたての牛乳を3リットル分くらいある大瓶に頂いて、残雪がまだ残る歌登から家路に着いた。H姉の涙、祈り、そして「美しい大地は」の賛美。どれも心に深く残る、春の日の午後となった。end

2013年

5月

13日

2013.05.13(月) №41 『 懺悔 “ホッケ"のこと 正直なめてました 』

Wikipedia (ウィキペディア)で『稚内プレス』を引いてみるとこう記されている。

稚内プレス社は、北海道稚内市内で『稚内プレス』を発行する地方新聞。A4判、日刊発行、月額500円。国内では日刊発行で最安値。

 

この『稚内プレス』を我が家ではとっている。毎日夕方前に「猛吹雪でも、オレは一歩も引き下がらんよ」的な空気を内に秘めていると感じる、心優しいおじさんが配達に来てくれるのだ。

 

教会から牧師館に戻っての一日で一番ほっとする夕食前後に、『プレス』(ここからはこう略します)を眺めながら過ごすのが日課だ。大手新聞社の記事を読む時間がなくても、これなら、さっと目を通せる。

 

他にも『日刊宗谷』がもう少し格上の感じで発行されているのは、無論承知しているのだが、我が家の「the Minister of Finance =財務大臣」は決して首を縦に振らない。ま、あったとしても、地元紙二つに(お金を無駄にしないようにしっかりと)目を通すのは時間的にも無理だと思う。

 

で、『プレス』には、“漁師の町稚内"とも言われることがあるだけに、地方卸売市場にその日に荷揚げされた魚の種類と漁獲量が必ず記されているのだ。

 

これがなかなか面白い。お魚の買い物のhintがもらえるのである。そしてそれ以上に、この情報を仕事柄確認する必要がある方たちが、稚内周辺には何千人か居られるとみえる。赤カレイ六百四十四箱、ツブ三百四十八箱、ボタンエビ百九十一箱という感じである。

 

5月11日号・土曜日(配達は5/10・金)には、そのたぐいの見出しとしては大きめにこう出ていた。

 

【ホッケ今年最多5千箱 10日の地方卸売市場】十日、地方卸売市場にホッケだけで四千九百十九箱(一箱十五キロ)の上場があった。沖底漁船として今年最高の水揚げ。

 

注目は、ホッケだ。

 

実はわたし。稚内の皆さんが「ホッケ最高だわぁ」「いゃ、やっぱ、ホッケしょっ」みたいな会話を交わしていても、心の中で、「ほんとにホッケがうまいのかねぇー」「あれは、貧乏学生だったころ、居酒屋で、安くて、でかくて、腹持ちする魚だった。でもさ、味はねぇ・・・」と決め込んでいた。

 

比較的最近も、「○○さんから、ご主人が自分で開いて干して冷凍していたホッケを頂いて、あなたが留守の時に食べたら、すごく美味しいよ。食べてみたら。わたしは食べるケン・・・」と言われても無視。

 

「オレは、いらん。アジの開きか秋刀魚の開き。イワシの目刺しあったんじゃない?」と言っていた。

 

ここではっきりと“懺悔の告白"をしなければなりません。縞ホッケの干物、最高! これからはどんどん食べます。はい。もう二度と、「アジの開きがいい」等と申しません。

 

今振り返って見れば『プレス』にホッケ今年最多・・・・と出ていたあの日の夕方、あるご婦人から、「先生、これ食べてみて。美樹さんいないっしょ、孫にも焼いたから・・・」と言ってお届けを頂いたのだった。

 

そして、さして期待もしないまま、夕飯の時「うーん、ホッケかぁ。ま、たまにはいいかなぁ」(スミマセン)等と、傲慢な気持ちで、ホッケちゃんを摘まみ始めたのだった。

 

む、むむむむっ。うぅー、こ、こ、これ、うまいじゃないか。脂ののり工合、ほんのり焦げた皮と一緒に頂いたら、さらに旨さ五倍。いやー、おそれいりました。

 

今、キーボードを打ち込みながら、そのときの味を思い出していると、じんわり唾が出てきてしまうのである。恥ずかしいなぁ、まったく。

 

産地のものは、やはり味が違う。これホントです。「函館で食べる新鮮ないかの刺身は、せんせぇ、ほんと美味しいんですよ」とあるご婦人がお話してくれたのは先週の水曜日だったか。聞き流していたが、やはりあれは、本当だろう。

 

考えて見れば、わたくし=もりげんいちろう。稚内では知られていないかも知れないのでありますが、関東以西では、ある程度の知名度があり、今ではそれなりのブランドにもなっている「関アジ・関サバ」の産地で育ったのでした。

 

市場には持っていかなかった「関アジ・関サバ」を、自転車に乗った漁師のおばちゃんが売りに来て、その新鮮な「関アジ・関サバ」の刺身を当たり前に口にしていたのである。

 

そう、わたしは、大分県の田舎の海岸の村で育った小僧なのである。だからして、そう、魚の味は、都会の方たちよりは、かなり分かる人間のつもりでいる、というわけである。

 

ホッケのこと。はっきり言って、なめていました。本当にゴメンナサイ。やはり、地元で取れるものはこれからも謙虚に、そして、ありがたく喜んで味わって見るべし。新たに深く悟らされた出来事となりました。

 

皆さま。稚内、そして、利尻や礼文にお出での際は、縞ホッケ。ぜひぜひ召し上がってみてください。ウニやカニよりも感動は大きいかもであります。

 

あっ、なお、わたくしに届いた縞ホッケ。タップリ大根卸しが添えられておりました。やはりこれも欠かせないようです。いやー、夜の夜中に再びお腹が空いてまいりました。end

2013年

5月

06日

2013.05.06(月) №40  『 路線バスにはじめて乗ったわけ 』


月曜日の早朝。少し天気がよくなりそうな気配もあったので、最近の私にしては、ちょっと遠目の散歩にひとり出掛けてみることにした。

 

何を隠そう、運動不足がたたって大幅体重増となり、慌てているのである。教区総会で久しぶりに顔を合わせた神学校の同級生のAさんは、「オレ、毎朝10㎞走ってるんだぁ。冬の間は自転車こいでな。息子も陸上部だし・・・今朝も走ったぜ」とさり気なく言う。 

 

個人的なブログながら、親しい方の幾人かが見るであろうこのブログ。正直に実状を記し、気を弛めることなく「ダイエット はじめます宣言」を公にして自分を追い込むことにする。

 

わたくし、過去5年くらいは誓ってそうだったのですが、当分の間、間食は断ちます。お菓子を食べない、と言うのではありません。10時とか、15時とか、16時とか、17時も。どんな美味しいものを見せられても「no, thank you」といたします。食事の流れの中で、デザートとしてならば多少は喜んで頂くかも知れない。が、その量も減らそう。

 

これがまず減量の第一歩。もちろん運動も心掛けなければならないが、率直に言って、動かないのに、一日のカロリー摂取が多すぎたのが本当のところだろう。

 

冬の間はやはり散歩しにくかったという一応の言い訳はある。しかし、さすがにまずいな、と思ったのである。

 

稚内に赴任した一年前頃は、確か体重は72㎏~73㎏の間くらいだったはずである。ところがこの数ヶ月でみるみる成長し(縣神学生来稚の頃に油断したか?)、5㎏程の増えてしまっていることに気付いた。またもや(∋_∈)シマッタである。

 

このままだと確実に実害が出てくる。ズボンはウエスト出しがきかない類いのものは、すべて、新しいのを買わなければいけないことになる。補正ができるものでも、もう無理というのも幾つもあるはず。

 

もちろんそうしたことだけでなく、血液検査などすれば、微妙に数値が上がっているのではと思う。

 

もう少し本音を言うならば、体重は別に80㎏くらいあっても構わないかも知れない。ギュッとしまっていればですね。でも、本当に皮下脂肪というのは、局所的につく。これは本当に困る。

 

思えば、体重変動の大きいこの数年だ。もっとも軽くなったのは3年前くらいだろうか。62,3㎏だったと思う。当時はっきり覚えているのは、デスクに座っていてお尻の骨が尖っていて痛いのである。ストレス過多でかなり傷んでいた頃だ。あれには(*_*) マイッタ。

 

はたまた、10年くらい前は80㎏越えの頃もあったと思う。その頃、ぎっくり腰になってしまい整骨院を訪ねたときに、「この辺り肉付きがいいですねぇ」みたいなことを言われて、ショックを受けたというか、目が覚めはずなのにである。

 

目方が増えるといつも思うことがある。

 

たとえば、5㎏の体重増。北海道が日本全国に胸を張って自慢できる、かの、“ゆめぴりか"=お米5㎏をスーパーで購入するとしよう。妻に、あなたが持ってと預けられて、ダラダラと歩き続けることが出来るか、と言えば自分には無理である。

 

子どもだって5㎏のわが子を、何とも思わないで、抱えたり、負ぶったりというのは、やっぱり大変ではないか。

 

                ****************

 

今朝は大黒方面にくだり、海沿いを歩いて、JRの最北端の駅が入るキタカラを一応の目標地点とした。4キロ位だろうか。そんなルートを歩いたことはこれまで一度もなかったので新鮮だった。

 

歩いていると、地元の新聞やラジオで見聞きしたことのある会社の所在地がわかったりする。やはり、車で通り過ぎてはしまうと見逃してしまうあれこれが多いなと思った。稚内港の漁船を見るのもたのしい。

 

目標地点としたJR稚内駅が入る“キタカラ"にたどり着く頃、そこから再び帰り道を歩く元気はなし。

 

Taxiはちょっとと思い、稚内に来て初めて路線バスに乗ることにした。駅ビルの中の宗谷バスのお姉さんに「緑4丁目に行くには・・・?」と尋ねると、「今度は8時29分、31番路線。坂の下行きです。3番でお待ち下さい」と教えてくれた。運賃は210円なり。

 

「バスに乗り込んでから10分もしないうちに、次は、緑4丁目、ひかり幼稚園前です」と案内があった。「稚内教会前です」と言ってもらうようにするのはお幾らなのだろう。そんなことを思いながらバスを降りた。

 

帰り道も歩ける位の体力が復活するのは夏が終わる頃だろうか。するってぇと、また、雪の季節なんだなぁ。いやはや、悩ましい生活が続くのである。end

2013年

5月

03日

2013.05.03(金) №39  『 “自覚が足りない” ことを深く知るの巻 』

 週に一度、車で10数分で行くことが出来る、稚内の小高い丘にある稚内北星学園大学へ、キリスト教関連の講義をしに出かけている。

 

 準備の苦労も確かにあるのだけれど、気付かされることが多く、有難い機会だと感謝している。

 

 寺子屋に近いクラスの大きさは、心地よさがある。今年はそれでも18名が受講となり、対話をしながらの時間をと願うわたしには、今の人数が上限である。

 

 まぁ、そんなことはあり得ないのだけど、大教室の授業を担当ということになると、おそらく一方通行となってしまい、性格的に寂しさを覚えるのではないか、と想像する。

 

 先日、今年入学したばかりの、とある1年生の学生さんと、授業後にホールで、お茶を飲みながら、あれこれとおしゃべりする時間があった。

 

 2週くらい前だろうか。その方が授業前に、かつてのわたしが深く愛していた「バランス栄養食 カロリーメート」を美味しそうに食べているのが妙に心に残っていた。

 

 だから、おしゃべりの中で「30年近く前の自分も、カロリーメートに世話になっていたよ。あれはね、その頃発売されたはずなんだ。当時は、牛乳と豆腐とカロリーメートが朝食だった」と伝えると、喜んでくれて、大いに話は盛り上がったりした。

 

 その話の流れの中で、「僕はねぇ、今52歳なんだけど・・・」と伝えた時の事。

 

 「えーーーっ、本当ですかぁー! 父さんと同じくらいだと思ってました。40代後半かもう少しわか・・・・・」という言葉を聞いたその瞬間。

 

 不覚にも、わたくし=もり げんいちろう。何だか嬉しくなってしまったのですねぇ。

 何が不覚なのか。

 

 “わが子”と言ってもおかしくない、その青年の言葉に、「おっ、そうか。オレは若く見えるのか」と、嬉しさを隠せず、喜んでいる自分に気付いてシマッタのである。

 

 このように、相変わらず“シマッタ”の多い人生が続いている。

 

 ある頃までは、年よりも落ち着いて見えるような、あるいは、大人に見えることを欲していた自分だったはずなのである。例えば16歳の頃は、(吸えもしないのに)煙草を買いに行っても怪しまれないような格好をしたりして、背伸びをしていた。服は地味系のベージュが好みだった。

 

 はたまた、牧師に成り立ての頃も、頼りない牧師に見えないように、経験不足が露呈しないようにと、これまた背伸びをしていたのではあるまいか。

 

 そっ、そ、それなのに。今や、ホントの年よりも、少しでも若く見えると聞いて、大いに喜んでしまう心が、しっかり育ち始めて居るのだった。

 

 自分ではあんまり意識していないことだったので、ちょっとばかり、ガーン((((;゜Д゜))))))) と感じた次第であります。やれやれ。

 

 サラリーマンならば60歳の定年。そして、その後の5年間の定年延長、そしてまた更に、その後をどうやって生きていくのかを考える世代である。

 

 若く見えて嬉しく感じる自分を、素直に受け入れなければいかん、と自覚させられた語らいの時だった。

 

 ありがとう、Hさん。父さんがんばります end

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