2014年

1月

29日

2014年1月29(水)№111 『 増補改訂版 牧師室便り No.22 』(1/26 発行分)


年末最後の土曜日・12月28日の昼前頃のこと。教会集会室で週報の準備をしていると本の電話が入った。


お目にかかったことのない方から、ご家族の葬儀の相談だった。

 

お父さまのSさん87歳が余命数日の状態になり、もしもその日を迎えた場合、キリスト教式の葬儀を執り行ってもらえるのだろうか。

 

東京から看病に来られていたクリスチャンの娘さんからの、不安を抱きつつの電話だった。

 

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都会の大教会であれば、信者さん以外の葬儀を引き受けていたら毎日お葬式になりかねないから、そう簡単に引き受けることはできないだろう。

 

しかし、人口3万6千人台となった稚内という町。教会は幾つもない。そんな中で、我々が断ってしまったとしたらどうなるか。

 

着任して間もなくだったと思うが、役員会の皆さんとの間で、このような場合お引き受けする気持ちで居るので了解していて欲しい旨を伝え、了解を得ていたことは幸いだった。

 

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相談に来られたのは、高校卒業迄は稚内に暮らし、以後、東京に出られ、今は墨田区にお住まいのM子さん。

 

わたしとほぼ同世代の方で、ご主人と共にクリスチャンだった。

 

告別式の時におじいちゃんの想い出を語ってくれたのは、M子さんの三女で末っ子のI子さん。確か中学一年生だった。

 

告別式の時、I子さんは家族を代表する形で想い出を語ってくれたのだが、来会された皆さんにこう話してくれた。

 

「おじいちゃんが、最期にイエスさまを信じてくれてよかったです」と。

 

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大正15年1月1日生まれのSさん。

 

なんと、お誕生日のその日の夕方、天国に帰って行かれた。満88歳になられたその日に召されたのだ。

 

稚内は漁業の町と呼ばれる。200海里の漁業規制以降、最盛期の10分の一に満たない漁獲量になったと言われる。

 

そんな稚内で、古くからの漁業者の方たちのみならず、地元の漁師さんたちが使っている機械、様々な漁網を巻き上げるための油圧式の機械の設計・製造・販売・修理までされるお仕事に長年従事されてきたのがSさんだった。

 

Sさんが開発された油圧装置は高く評価されていたそうで、宗谷近郊の漁業者のみならず、遠く、東北地方やサハリンにも出掛け、力になって居られたという。

 

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つまり、多くの漁業者たちに頼りにされていた方、それがSさんだったわけだ。

 

わたしは、そういう方との出会いを与えられて、本当に嬉しかった。

 

あー、稚内の町の牧師として働いているのだなと実感した。

 

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わたしは人に歴史ありと常々思っているのだが、Sさんが大正15年の1月1日生まれというのは、わたしにとって、非常に気になる年だった。

 

大正がおわり、続く昭和元年は12月25日に始まった。つまり7日間だけしか無かった。

 

そして次の年は昭和2年ということになる。実は、わたしの父が昭和2年4月1日生まれなのだ。つまり、Sさんは父のような年齢の方だ。

 

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ところが、そのわずか一年半の誕生日の違いが、Sさんとわたしの父とでは、人生を大きく変えていたことを知らされることとなった。

 

シベリア抑留のことをご存知だろうか。

 

わたしは、歴史の本で少し学んだことがあった程度でその実体については知らないに等しい。モンゴルだったか、直木賞作家の胡桃沢耕史が記した『黒パン俘虜記』をむかーし読んだ記憶があるのが限りなくちいさな接点か。

 

実はSさん。シベリアでの過酷な抑留生活を4年間経験された方だった。

 

Sさんには召集令状が届き、わたしの父には届かなかった。もちろん、Sさんは生きて帰って来られたからこそ、この度の葬儀を通じての出会いが与えられたのだ。

 

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Sさんは利尻島出身の方だった。シベリアに抑留されている自分の息子のことを知った、Sさんのお母さま。

 

貸してくださったお身内の記念誌によれば、茶断ち、餅断ちをして祈りながら、息子の帰還を待ち続けていたという記録が目に留まった。

 

双葉百合子さんの「岸壁の母」と重なる。

 

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Sさんにとって人生最期の食事は12月19日の稚内市立病院の夕食だったと聴いた。

 

居合わせたお嬢さんのM子さんが「お父さん、他におかずがあるのだから、ご飯ばかり食べないで・・・」と注意したそうだ。

 

すると、50歳の娘さんが初めて聞く父親の言葉が飛び出したのだった。

 

「父さんなぁ、シベリアに居た時、一度もお米があたらなかった・・・・。だからこうなるんだ」と。

 

もちろん、シベリア抑留は知っていたM子さんだが、時に見掛けることのある父親の偏った食事のとり方の理由を死の直前に知ったのだ。

 

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このような父と娘の掛け替えのない人生のひとこまを知り、わたしはふと、作家、劇作家、放送作家としても知られた井上ひさしさんの書かれた芝居を思い出した。井上さんはキリスト教とも深い関係がある方だ。

 

わたしは20代の頃、小劇場の舞台をよく観に出掛けていた。寺山修司の天井桟敷、野田秀樹の夢の遊民社(彼らは大きな所で演じるようになったが)、唐十郎の花園神社での情況劇場、更には、三宅裕司のSET(スーパーエキセントリックシアター)、の第三舞台、蜷川幸雄のベニサンピット等々、石橋蓮司の第七病棟、いやいや、他にも、細川俊之と木の実ナナのショーガールなどのミュージカルも楽しんでいたのだが・・・・。

 

で、そんな中に、井上さん演出の「こまつ座」のお芝居があった。浅草で観たと思う芝居で、忘れられない一場面がある。脳裏に焼き付いている。

 

戦中のこと。ある一家に鶏の卵が一個届いた。当時、卵はご馳走でだったという舞台設定だ。めったに口にすることのない卵を一家が手にし、舞台の上の人々ははしゃぎ、歌い踊る。

 

ところが、卵焼きか目玉焼きかと大騒ぎしているうちに、無情にもその卵はポトリと地面に落ちて食べられなるのだった。

 

戦争の悲しさ、虚しさを大笑いさせながら知る芝居だった。

 

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地域に仕える牧師として生きること。本当に光栄なことだと感じるこの頃だ。

 

この度の葬儀であらためてそう感じた。

 

とりわけ、稚内という、他の市町村とは明確な境界線がある地域にある教会の牧師として歩ませていただけることに喜びを覚える。

 

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Sさんの葬儀には、利尻昆布バザーでお世話になっている西浜の漁師さんの姿もあった。

 

他にも、いつも牧師館に回覧板を届けてくださるYさんご夫妻も居られたことを、妻から教えられた。

 

当然、キリスト教の葬儀では、聖書を読み、讃美歌を歌い、祈りを合わせる。式辞という形で説教もあるわけだ。つまり礼拝なのだ。

 

そう簡単には教会にお招き出来ない方たちと礼拝を守れたこと。感謝だなと思う。

 

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讃美歌を歌える方が少ないと思い、市内のホテルで結婚式の時にご一緒する、教会とは直接には関係の無い聖歌隊の方たち(つまり、彼女たちは音楽のプロフェッショナル)をお招きして、讃美歌を歌っていただいた。

 

彼女たちもキリスト教の葬儀に触れて、感動を覚えてようだった。

 

その中の一人は、先だっての教会のクリスマス礼拝後の愛餐会で、ソプラノ独唱をしてくれた方だった。

 

このような、出会いというのか、繋がりを生み出してくれる方が生きて働いていることを感じる。

 

全ては神さまのご計画。感謝しかない。end

 

2014年

1月

21日

2014年1月21日(火)№110 『 我 ステテコを愛す 』

 

Wikipedia・ウィキペディアで、「すててこ・ステテコ」について調べると、冒頭の何行かにこう記している。

 

【ステテコ(suteteko)とは主に男子が着用する、裾が股より長く膝下丈まであるズボン下である。猿股や股引とは違い、幅広で肌に密着しない。パンツの外、ズボンの内に穿く。汗を吸着したり滑りをよくしたりする役目もあり、ズボンを傷めにくくする効果があるほか防寒効果もある。】

 

何を隠そうというか、隠せないのだが、わたしはステテコが大好きだ。ステテコの原点はオヤジであり、祖父であり、親戚のおじさんだ。

 

ただ、30歳に少し年を重ねたばかりのあの日までは、まさか、自分がステテコを愛するようになるなんて、思いもしなかったし、正直言えば、馬鹿にしていたのだった。ダンディーにスーツを着こなすのに、ステテコなんて馬鹿らしいと信じて居た。

 

ハンフリー・ボガートだって、アランドロンだってステテコなんて無縁だろう。現代の人気映画スターの、ジョニー・デップ、トム・クルーズ、ブラッド・ピットだってそうだろう。

 

日本の人気俳優・役所広司あたりだとどうかと言えば、ヤツはもしや愛好者か。しかし、二宮和也、向井理あたりだと、どうも自信が無い。渡哲也とか石原裕次郎はどうだろう。

 

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あの日。

 

それは、神学校4年生の夏。参議院選挙が行われたあの日曜日の夜のことだ。静岡県沼津市にある教会の牧師が、最終学年の4年生のクラス担任をされていたO先生だった。

 

O先生のご配慮により、沼津近郊の教会の日曜日の礼拝説教を、わたしたち同期生は担当させて頂いたのだった。同期生と言っても、本当に寺子屋のような神学校。一緒に卒業したのは6名だけだった。

 

その日、各教会での奉仕を終えてから、夕礼拝は一番年下のTの説教で共に礼拝を守り、その後は、O先生とE子さんの心尽くしの沼津のおいしい刺身を前に手巻き寿司を楽しみ、参院選挙の結果を眺めながら、夜は更けていった。

 

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さぁ、そろそろ、教会の畳の部屋でごろ寝して休もうぜ、という段になり、私の眼から鱗が落ちる瞬間がやって来た。

 

貧乏な神学生の中で、ひときわダンディーなスーツを着こなす同級生のNが居た。神学校で学ぶ同級生の年齢は、父親のような人も居たし、弟分のような男も居たのだが、Nは多分同じ歳だったと思う。

 

スーツのズボンを脱ぎだしたNを見守っていたわたしは、Nがステテコを履いているのに気が付いて何か言ったのだと思う。

 

「お前、ステテコなんてはいているのか?」

みたいな事だと思う。もう完全に忘れているが。

 

するとNは答えた。

 

「もり、お前知らないのか。ステテコは汗を吸ってスーツを傷めないように生地を守ってくれるんだぞ」

と。

 

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オーバーに言えば青天の霹靂、いや、目から鱗だった。

 

うちのオヤジや祖父が、パンツ一丁でぶらぶら歩くのはやめて、と言われてはいていると思い込んでいたステテコ。それが、ダンディーに生きる男の必須アイテムだとは知らなかった。

 

おそらく何日もしないうちに、わたしはスーパーに走り、「す、す、ステテコください」と言っていたと思う。以来、20年と少し。

 

今では、夏も冬も春も秋も、ステテコさまは、わが人生の友なのだ。下手なパジャマなんて必要ない。jeansだってステテコを履いた方がいい。トレパンをと言うときはさすがによすが、ホントに、Nには感謝だ。

 

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昨夕のこと。そのNが逝った。天に帰って逝った。

 

偶然、関東在住の同窓生に、昆布バザーの代金の入金御礼の電話を入れた時、「もり先生、知っていますか・・・・亡くなられたんです」と聴いたのだった。

 

同級生は二人目の召天。Hは召されてから何年が経つだろう。彼もわたしと同じ歳だった。

 

ここ数年、Nは教会の現場を離れていた。そして、高齢者福祉関連の仕事に仕え始めて頑張っていたそうだ。

 

ひと言、ふたことでは説明がつかない事情があったとことは推測できる。人一倍繊細な男だから、傷つき疲れ果てたのだと思う。

 

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神学校で説教の作り方のイロハを学び始めた時に、黙想というものが必要だと、当時の校長から教えて頂いた。

 

黙想。それは神学生がそう簡単にできることではなかった。

 

ある日の説教演習の授業だったと思うが、Nは正直に校長にこう言ってくれた。

 

「先生、榎本保郎の『一日一章』を読んで考えることくらいしか俺たちには出来ないっすよ」

と。

 

その時俺は黙っていたけれど、本当のところ、俺も殆ど同じようなことを考えていたぞ。

 

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牧師で有り続けるということは、喜ばしいことも多く経験するけれど、同時に、なんと大変なことかと思う。

 

特に、同じ歳の同級生を二人、53歳というこの歳で既に天に送ってしまった者としてあらためて思う。

 

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Nよ。

 

俺はさぁ、一生、ステテコ大事にするからな。ステテコに足を通す度に、お前を思うぞ。本当にさ。

 

だって、ステテコなしの俺なんて考えられないもの。

 

おつかれさま、N。

 

さみしいぞ、N。

 

ありがとう、N。お前はさ、永遠だ、永遠。

 

我、ステテコを愛すだからな。待ってろよ!end

 

 

2014年

1月

20日

2014年1月20日(月)№109 『  美穂さん 』

 

同じ地名というのは、日本の各地にある。

 

いや、世界各地とも言えるようだ。他住民族が暮らす「カナダ」にも「ロンドン」がある、ということも、カナダ合同教会の方たちとの交流のある道北で、わたしは遅ればせながら知るようになった。イギリスからの移民があったという歴史だろう。

 

わたしは、かつて、新潟県上越市の「高田」という歴史ある城下町の教会に仕えたが、他府県の人からすると、そこは、「上越高田」ということになる。

 

かつて、福島の喜多方で頑張っていた神学校の同級生との会話から、福島で高田と言えば、「会津高田」なのだと教えられた。そうだ、わたしの故郷・九州の大分にも「豊後高田」がある。他にも、岩手県の「陸前高田」もあるし、広島県には「安芸高田」もあるはず。

 

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「清里」というと、東京で暮らして居たときは、山梨県の清里高原のことを思った。東京・銀座教会の夏の修養会は、わたしが会員としてお世話になっていた頃は、清里に行くのが定番だったと思う。青山学院関連の施設だったのか、30年近くも経つと、もはや、ちと怪しい記憶だ。

 

牧師館でラジオを流していると、時々、見知らぬ町の名前が出てくるが、だいぶ前に、北海道にも「清里町」があることを知った。オホーツクの斜里郡にある町だという。人口4千人程のちいさな町のようだ。

 

実は、新潟県上越市にも「清里」がある。

 

きょうはその清里で出会った【美穂さん】を巡るお話だ。


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今は清里区となっているが、2005年の平成の市町村大合併で上越市に編入されるまでは、清里村だったはず。

 

わたしが高田教会に仕えていた頃、そこにご子息ご夫妻と共に暮らして居た【美穂さん】を定期的に訪ねていた。

 

ある日のこと。【美穂さん】宅のひろいお庭で立ち話をしていた。後で妻に教えられたのだが、【美穂さん】とわたしの話は、ごく普通におしゃべりしていただけなのに、大きくこだまして響き、車の中で待っていた妻に丸聞こえだったという。

 

山がすぐ近くにあるわけではない。というか、遥か遠くなのに・・・・・声がこだまする。あまり記憶にない経験だ。

 

清里はそれ程空気が澄み、我々の会話をさえぎるものが何もない、美しい地なのだ。内緒話に注意だ(笑)。

 

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先週、美穂さんのご長男のM男さんと奥さまのS子さんからお便りがあった。クリスマスのカードが使われていて、妙に嬉しかった。

 

冒頭にはこうある。

 

【母が昨年の一月七日に召天してから一年になります】と。

 

90歳で宇都宮の教会からの転入会式を迎えたときに、清里のお宅から、赤・白・黄色のチューリップを教会に持って来てくださった美穂さん。


だいぶお耳が遠くなっていた美穂さんに、わたしは大声でこう尋ねした。

 

「美穂さーん、会員になってくださいますかーー!」


「はい、お願いします」


そう、ひと言お応えになったと記録している。

 

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美穂さんとわたしが共に過ごしたのは決して長い時間ではない。

 

が、カメラのフィルムに焼き付くように、脳裏に焼き付いている場面が幾つかある。

ある土曜日の午後。田園地帯の中にある清里のお宅に伺うと、その日、美穂さんはお一人で居られた。

 

リビングルームの一番奥の座り心地のよい食卓に二人して座り込み、楽しくも、しかし少しぎこちないお話をするうちに、何かの拍子に美穂さんは、わたしにこう話し掛けられた。

 

「先生、わたしも(礼拝の時の子ども祝福のように)頭に手を置いて祝福してください」

と。

 

美穂さんは冗談でそう言われたのではない。ごく普通に、真面目に、心の底から、いつもの美穂さんらしく淡々とそう口にされた。

 

美穂さんは、それを求めて居られたのだ。90歳にしてだ。

 

わたしはその時、手を置いて祈ったのかどうか、忘れてしまった。シマッタなぁ、の記憶はないので大丈夫だと思うが・・・。

 

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こんなことも忘れられない。

 

ご子息のお嫁さんS子さんがそっと差し出してくださったものだったかも知れない。

古いふるいアルバムに収められていたのは、美穂さんのご出身地、秋田での美穂さんの結婚式の着物姿の写真だった。

 

それはそれは美人さんで、秋田美人とはこの人のこと、と確信した。

 

白黒で記録された写真は、少しも色褪せておらず、さらに鮮やかにわたしの心にmonoーchromeで記憶に残っていて、今も変わらずに美しい。

 

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ご長男のM男さん。お母さまが天に召される少し前から、礼拝に出席するようになったことを、風の便りにお聴きしていた。

 

クリスマスのキャロリングでお邪魔した時などには、お話を伺うこともあったM男さん。この度の遅れて届いたクリスマスカードに、お母さまを天に送られて一年が過ぎての思いを綴ってくださっていた。

 

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【子どもがiPadを買ってくれたので、今日、先生のブログで先週の説教をお聞きしました。先生の話はイメージがあり、ああ、そういうことかなのかと思いました。母が亡くなってから子供の頃の母とのことを思い出します。・・・・先週の説教はわたしの心にとどきました】

と。

 

奥さまのS子さんもひと言添えてくださった。

【今日初めて、先生の説教を聞かせて頂き、まるでその場で伺っているような迫力でびっくりしました】

 

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その後、わたしはこのカードを幾度も読み直し、M男さんに電話を入れてみた。お二人が聴かれた説教は1月12日の『想起しよう我らの神を』のことだと知った。

 

電話では、ご結婚間もない頃に奥さまと共に利尻、礼文を巡るいわゆる貧乏旅行をされたこと。そして、稚内駅付近では、見たこともない程おおきな毛がにを買って、2時間程(宗谷本線・国鉄)列車の中でかぶりついたことなど、懐かしそうにお話しされていた。

 

録音されていた説教をお聴き頂き、お役に立てたことは素直に嬉しい。特に、「イメージがあり」というのは、そこに映像が思い浮かぶということだろう。

 

わたしが説教をする時の理想のひとつが、目の前の人物が動きだし、情景が思い浮かぶこと。だから、よかったなぁ、としみじみ思う。

 

そして何より、み言葉が心に届く“時”が来ていることに心から感謝だ。

 

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礼拝が、教会が、お母さまと結び付く幸せ。お母さまと出会い直せる礼拝でもあるのだろう。いいじゃないか。

 

今、上越の清里からは遠く離れ、稚内に居てもお役に立てて幸せだ。 

 

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雪に濡れたのだろうか。届いたカードはだいぶしおれていた。

 

清里の雪か、稚内の雪か。

 

イエスの言葉を憶う。


【はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。】(ヨハネによる福音書12:24)

 

神こそが全ての時をご存知のお方。死は新しい命を生み、慰めの風が吹き、水が注がれて育って行く。

 

美穂さん、よかったね。そして、あらためて伝えたい。

 

美穂さん、ありがとうございました、と。end

 

 

2014年

1月

17日

2014年1月17(金)№108 ■教会HPより転載 『 “ お花の十字架 ”と共に 「もーし!」の合言葉 』

Sさんの葬儀が市内のホールで行われました。Sさんは稚内教会の方ではありませんが、クリスチャンのご家族からの相談を受けて、仕えさせていただきました。1月1日に召天。その日は、大正15年生まれの誕生日でもありました。ひつぎの上に置く、十字架がほしいな、と思い準備していただいたものです。
Sさんの葬儀が市内のホールで行われました。Sさんは稚内教会の方ではありませんが、クリスチャンのご家族からの相談を受けて、仕えさせていただきました。1月1日に召天。その日は、大正15年生まれの誕生日でもありました。ひつぎの上に置く、十字架がほしいな、と思い準備していただいたものです。

■ちょっと「request」とわたし自身も思うところがあったので、稚内教会のHPに既に公開しているものですが、転載します。あしからず。

 

写真のお花。1月1日(水)の夕方、88歳のお誕生日に天国へと召されて行った、Sさんの葬儀に際し、わたし(牧師のもりでございます)がお願いして創っていただいた、十字架をモチーフにした美しいお花です。聖書にもつながるユリがアクセントになっていて素敵です。

 

お花屋さん、ありがとうございます。願い通りのものです。

 

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12月28日(土)、Sさんのお嬢さんM子さんが教会に電話を下さいました。「父の葬儀のことを相談したいのですが・・・」と。

 

稚内の学校を卒業されてから30年。2年前にはお母さま、そして、この度はお父さまを天に送られました。都内にお住まいの他教会のご婦人ですが、稚内教会内部での約束にしたがって、ご相談をお受けしました。

 

以来、お父さまが入院中の病床をM子さんと共にお訪ねし「主われを愛す」を歌ったり、お祈りを合わせながら過ごしました。また、ご家族からは、Sさんとの想い出や88年のあゆみについて、ゆっくりお聴きしていました。

 

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葬儀は、市内の葬儀屋さんのホールで行われました。そして、司式させて頂いた者としても、さまざまな恵みにあずからせていただく機会となりました。

 

Sさんは、昭和30年・1955年に、漁師の町と呼ばれることのある稚内の漁業者の方々が使う、底引き網を引き上げる油圧式の機械などを製作する会社をご家族と共に設立。お兄さまの10年程前の召天後は、88歳の誕生日の日まで、社長さんとして頑張り続けて来られた方でした。

 

ご家族を大切にされたことはもちろんのこと、稚内のみならず道内各地の漁業に携わる方たちの求める機械を産み出し、皆さんに頼りにされ、共に歩まれた方であること知りました。

 

【喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい】

 

ローマの信徒への手紙12章15節の聖書の言葉を、告別式の開式のみ言葉としてに選び、朗読しました。

 

まさに、そのような人生を歩まれた方であることを信じて。

 

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シベリア抑留。

 

個人的には、歴史の一ページとして聞いたことがあるだけでした。寒さと過酷な飢え、そして強制労働があったとは聞いていました。

 

実はSさん。シベリア抑留4年を経験した後に、帰国された方だったのです。大正15年生まれということは、召集令状を避けることの出来ないさいごの世代のはずです。昭和元年・4月1日生まれだったわたしの父より、ほんの少し年上。わたしの父は戦地におもむきませんでした。

 

Sさんが「平和」を声高にうったえることはおそらくなかったと思いますが、お嬢さんのM子さんが見守った、Sさん最後の食事の時に、こんな会話があったそうです。

 

「お父さん、おかずと一緒に、ご飯たべなさいよ。どうして、ご飯ばっかり先にたべてしまうの・・・」

 

「父さん、シベリアに居たとき、ご飯は一度もあたらなかったんだ。だから、こういう食べ方に・・・」

 

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【わたしは道であり、真理であり、命である】(ヨハネ福音書14章6節)

 

このみ言葉も読ませて頂きました。

 

「なぜ、自分は生き延びて、帰ってくることが出来たのか」

 

Sさん、そういう言葉を口にすることも、あったそうです。それはまた、多くの仲間たちが生きて帰ることが出来なかったことを意味するものです。

 

与えられたいのちを、生かされている場で誠実に捧げ続けられたSさん。

 

2年前に先に召された奥さまと、二人三脚・一心同体で歩まれたことも大きな力になったことは間違いありません。奥さまの手料理をいつも心から喜び、笑顔で味わっていたそうです。お昼休みも、お宅に食事に帰って来ていたとのこと。

 

が、神さまからの最高の贈り物であった奥さまの存在と同時に、見えざる導きをされた、主イエス・キリストの父なる神さまは、Sさんの生きるべき道を、見えざるみ手をもって、最期の日まで、切り拓いて、備えてくださったことを思ったのです。

 

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葬儀では思いがけない出会いがありました。

 

稚内教会の牧師館の斜め前にお住まいのご夫妻・Yさんが前夜式に出席されていました。後でご遺族に聞いてみると、Sさんのご親戚でした。

 

お近くの方を教会の礼拝にお招きする、というのは難しいことです。でも、葬儀の場で、神さまの愛と導きを語らせて頂く場でご一緒できました。

 

また、前夜式の献花の時に近づいて来た男性の姿にあっと思いました。利尻昆布バザーで本当に多くのことを教えていただき、お世話になっている漁師さんでした。翌日の告別式にもお出でになったSさん。

 

これまた、教会の礼拝に出席して頂くのは、なかなかハードルが高いと思うのです。でも、Sさんの葬儀に仕えさせて頂くことを通じて、キリスト教が証しするたいせつな部分をご一緒していただけたことは、思いも寄らない神さまの備えでした。

 

お話をいつも沢山なさる漁師さんですから、きっと、次に顔を合わせる時に、何かを語り出して下さることと思います。

 

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告別式の時、想い出を語られたのは、お孫さんのI子さんでした。中学1年生の制服を着て出席された女の子です。中学3年と大学一年のお姉さんが居るのですが、I子さんがstandマイクの前に立ってしっかりとお話になりました。

 

I子さん。おじいちゃんとの、電話を掛けるときのヒミツの合言葉を、皆さんに教えてくれました。

 

おじいちゃん電話をするとき、「もし、もし」と言わないのだそうです。

 

「もーし!」

 

その声が、受話器の先から聞こえて来るとSさんは答えます。

 

「おーーーっ、きたなぁ」

 

こう応えて、二人は会話を楽しんでいたそうです。末っ子だからこそ、こういうやり取りが出来たのかも知れないです。

 

クリスチャンの彼女は、「おじいちゃんが、さいごにイエスさまを信じてくれて本当に良かったです」とお話しになり、想い出を語る役目を終えられました。

 

そう、娘さんのM子さんが、「最期の時は、キリスト教でいいね。天国に行こうね」との言葉に、ベッドの上で、深く大きくうなずいたそうです。

 

病室のベッドの傍らに座り、わたしとM子さんが一緒に歌った賛美歌は、間違いなく耳もとで聴かれ、あー、キリスト教の牧師さんが来たのだなぁ、とわかってくださっていたようです。

 

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利尻島出身のSさんです。9人兄弟と知りました。

 

わたしは告別式のさいごにこうお話ししました。

 

Sさんは神さまが天国へと召し上げて行かれたのは確かです。

 

でも、今、漁港のある町・稚内から、船出されたのです。ふるさとの島(利尻)へ向けての船出のように見えます。

 

しかし、利尻島の脇を通り過ぎ、遙か彼方に、奥さまもご両親も手を振って待って居られる場所があります。今ここは、彼方にある港に向けての船出の場であり、その時だと思うのです。祈りを持って見送りましょう、と。

 

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この度の葬儀を通じて、素晴らし出会いを与えられました。わたしは地域にある教会の牧師として、ほんとうに幸せ者だと感じました。

 

イエスさまは言われました。

 

【行って あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える】(ヨハネ福音書14章3節)

 

ご遺族の上に、また、ご一緒にお仕事をして来られた、会社の皆さんや地域の皆さまに、主イエス・キリストによる慰めをお祈りいたします。

 

そして、Sさん、最期の5日間の出会いを心から感謝いたします。天国でお話、聴かせてください。end

 

※2014年1月10(金)№105 『 神さまの振るタクトのもとで 』 という題で、Sさんの葬儀のこと記しています。お時間があれば、どうぞお立ち寄り下さい。

2014年

1月

16日

2014年1月14(火)№107 説教:『利尻昆布10㌘の重さ』(北海教区〈年頭修養会〉閉会礼拝にて)

エプロン(利尻昆布バザー作業時用)をしての、前代未聞?のスタイルで説教しました。もっとヘンテコな格好も「気ままフォト」のページにUPします(^^♪
エプロン(利尻昆布バザー作業時用)をしての、前代未聞?のスタイルで説教しました。もっとヘンテコな格好も「気ままフォト」のページにUPします(^^♪

〇録音しそびれた説教です。たまに、こんな形でブログにUPします。あくまで、原稿として準備したものですので、このとおりに語っていません。説教は生が第一、文字化されたものは全く別物です。原稿をUPすることは今後はあまりないと思います。 

 

於;旭川ロワジールホテル

2014年1月14日(火)11時

北海教区 年頭修養会 閉会礼拝説教

マルコ福音書 12章41節~44節

 

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◆はじめに
 年頭修養会の511号室で同室となった、親愛なる大先輩・旭川六条教会の西岡昌一郎先生より、ある秋の日、稚内を訪ねてくると電話が入った。

 

 稚内教会の森は利尻昆布のことばかりやっていて、礼拝も祈祷会もそっちのけになっているのでは、と見に来るのではないかと、夫婦で話し、二人で身構えで待った(笑)。

 

 だからだろう、511号室で昨晩夜休むときも、体を真っ直ぐにして休んでしまった。

 

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①重さを心にとめる

 年頭修養会を終えようとしているが、体重計が気にならない人はいないだろう
 
 一泊二日、ほぼ缶詰状態だったわたしたち。何グラムかは、皆、体重が増えたのではないか。

 

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②利尻昆布バザー

 閉会礼拝の前に、稚内教会から修養会に出席している役員さんが「先生、エプロン外さないでいいんですか」と慌てて近づいて来た。

 

 もちろん、わたしは「いいんです、これで。これがなくっちゃ・・・」と伝えた。

 

 わたしたち稚内教会、70㌘入り500円の利尻昆布バザーを昨年の春から始めた。(現物の昆布を見せながら)このちいさな10グラムばかりの利尻昆布から、澄んだ上質な出汁がとれる。

 

 袋詰めなどするとき、わたしはこのエプロン、そして、衛生面に配慮して、教会の方たちと一緒に衛生帽を被る。

 

 この半年余り、我が家では、妻が料理にフルに使うようになったのだが、確かに利尻昆布の出汁を使った料理はおいしい。

 

 お好み焼きを焼くときも、カレーを作るときも使う。豚しゃぶをするときも、たまらなくおいしい。

 

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③『北海教区通信 189号』の四コマ漫画

 洞爺湖教会の塩谷真澄(しおや ますみ)牧師が毎回描かれる四コマ漫画『それでも・・・Yes(イエス)』をご存知だろうか。最終ページにあるのだが、最新の189号は、番外編ということで、なんと、稚内教会の《利尻だし昆布》が取り上げられた。

 

 大ベストセラーの『おいしんぼう』をモチーフとする某美食家が登場。主人公のペー助君が、美食家にホカホカの炊きたてご飯を食べさせる。

 

 美食家は、あからさまに「なに!?このわしに その米を食えと言うのか」「素人が生意気に・・・」とつぶやく。

 

 ところが、その炊き立てのご飯は、程なく百戦錬磨の美食家に、「むっ、ムムム、この味は!? ほのかに甘い香り。かつ豊潤な旨味が口に広がる」と言わせしめたのだった。

 

 そう、塩谷先生。わたしがお伝えしたとおりに利尻昆布10㌘を使ってご飯を炊き、美味しさを確認。十分納得の上で、漫画を描いて下さった。

 

 先週の金曜日に電話をして、本当に昆布を使ってご自分でご飯を炊かれたか改めて確認したが、もちろんですのお答え。さらに塩屋牧師は、「森先生、冷えたご飯がまたおいしいです」と言って下さった。

 

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④10㌘の昆布とは?

 塩谷牧師がお米を炊くときに使った利尻昆布の重さ。

 

 それは、わずか10㌘だ。

 

 たったそれだけで、果たして役に立つのか、という程度の重さ。こんなもの要らな

いと、軽く扱われ、場合によっては、見向きもされずに捨てられる程度のものではないか。

 

 それが、10㌘の昆布だ。稚内教会の利尻昆布に換算すると、値段にして50円分程度か。

 

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⑤昆布は刻まれ、小さくなってこそ力を発揮

 昆布は5~6㎝という、正方形とか長方形の破片ではなく、細かく刻んだ方が、出汁が出る。横着して、適当な大きさのものを一枚ぽんと鍋に投げ入れればよい、というわけではない。

 

 長さ4~5㎝の昆布を、ハサミで1~2㎜程度の幅に切り、細くほそく、千切りにする。それを水につけて冷蔵庫で一晩おく。すると、完璧な出汁が出るのだ。

 

 待たねばならぬ。キリスト者は特に。

 

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⑥マルコ12章「やもめの献金」と「利尻昆布」の接点は何か

 この箇所。わたしの特愛の聖書箇所で、稚内教会でお見合い説教したときのみ言葉だ。が、その時と同じことを語るとしたら、わたしも何の成長もないことになる。

 

 イエスは神殿の境内の賽銭(さいせん)箱の向かいに座っておられる。献げ物をする人たちの様子がすべて見える場所だ。

 

 聖書にはこうあった。

 

 【42 ・・・一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた】

 と記されていた。

 

 貧しいやもめが捧げたのはユダヤの貨幣の中でもっとも小さく軽い銅貨だ。この硬貨の値打ちは、わたしたちの生活の感覚から言えば、どう多く見積もっても100円。

 

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⑦イエスは貧しいやもめの捧げ物に何を見たか

 イエスさまは、この女性の捧げものをどのように受けとめられたのか。もう一度聖書を読もう。

 

 【43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、・・・だれよりもたくさん入れた。44 ・・・この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」】

 

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⑧「生活費」という言葉に注目しよう

 【生活費】(原語は「ビオン」)という言葉には、確かに「財産」という意味もある。

 

 しかし、その他に「人生・生涯」という意味があることを知ってほしい。

 

 我々は、この女性が投げ入れたものは、この女性の全生涯を捧げる姿勢そのものだ、と読みたい。

 

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⑨稚内教会が扱う「利尻昆布」を通して考える

 利尻昆布の使命。それは、一切を出し尽くして、ひとつの無駄もなく 他の食材を生かすために こんぶ人生を献げ尽くすことにある。

 

 興味深いのは、先ほども触れたが、昆布は細かく刻まれてこそ良質の出汁を出すことだ。

 

 そして、出汁を出し尽くしても、実は なお お役に立てる。佃煮、そして、各種煮物に混じり、実に素晴らしい歯ごたえと共に、おいしいおかずになる。一切の無駄はないのだ。

 

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⑩稚内教会の「利尻昆布バザー」による変化

 最北の町にあるちいさな教会の昆布の作業。昆布切りや袋詰め等いろいろある。日によって数名、日曜日は7~8人のこともある。

 

 そこには必ず笑顔がある。少し前には、「楽しい」という声が聞こえた。わたしから離れた片隅の畳みの作業場での声だが、嬉しかった。それは、何年も教会をお休みされていた方の自然な言葉だったからだ。

 

 最近は、新来会されたばかりの70歳前のおいちゃんが輪に加わっている。半年前にあるたいへんなご病気のために手術をされ、ドクターからは、一年後の再発を予告され、他のご病気とも戦う。20年前には、最愛のたいせつなご家族を天に送り、行き場所を失っていたかのように見えるおいちゃんに、利尻昆布バザーによって不思議な居場所が備えられた。

 

 利尻昆布によって、何かが引き出されているのだ。

 

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⑪講師:金香百合(きむかゆり)さんを巡って

 北海教区の道北地区が、年頭修養会の講師に金香百合(きむかゆり)さんをお招きすることを決めてから、金さんのことを、どのように紹介・案内すればよいか、実は、かなりむつかしかった。

 

 わたしも含めてスタッフは頭を抱えた。誰もうまく説明出来ない。準備委員会の空気は暗かった。

 

 金香百合さん。他の世界での活躍や知名度に較べて、キリスト教界では本当に思いがけないことだが、知られていない存在だった。

 

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⑫「ファシリテーター・facilitator」とは

 金香百合さんのお仕事。それは、「ファシリテーター」だ。
 
 準備委員会で、横文字の「facilitator、そして、facilitateってなによ!」という声があった。

 

 しばらくの沈黙ののち、(英語が母国語であるカナダ合同教会の宣教師)〈ロバート・ウィットマー先生〉が言われた。

 

 「うーん、そうだねぇ。《何かを、ヒキダス という意味》だネェー!」と。

 

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⑬わたしたちキリスト者の生き方

 クリスチャンとは、空っぽになってこそ、何かが新たに注がれる器となれたり、周囲の何かを引き出せる力になるのではないか。

 

きょう登場したやもめのように。利尻昆布10㌘に通じる不思議を思う。

 

 わたしたちは、教会の交わりの中で、そして世にあって、よいものを引き出して行く役割を果たせるのではないか。

 

 利尻昆布も飾ったままでは本当に何の役にも立たない。細かく切られ、水に浸かってなんぼなのだ。わたしたちも洗礼式で水に浸かったではないか。

 

 そして利尻昆布は、・・・・・他のものとの繋がりが生まれるときに、素晴らしくおいしいものを提供出来るようになる。

 

 利尻昆布は、自分自身に何かがあるのでは無く、むしろ、出汁を出して、自分が空っぽになることを通じて、何かをヒキダスのだ。

 

 自分を捧げ尽くす生き方をそこに見る。

 

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⑭軽さと重さ

 貧しいやもめが捧げたお金。それは世の人々が無視することの出来る軽い金額だった。

 

 しかし注意したい。

 

 もしも、その金額を無視できるということは、彼女の存在そのものが、この世に於いてとても軽い存在で、無視しても構わないということに繋がる、ということだ。

 

 しかし、イエスは、彼女の存在の重みを知っていて下さる。感謝だ。

 

 イエスさまはこの無名の貧しいやもめ、と呼ばれる女性の小ささ・軽さを、他のだれよりも重くおもく受けとめて下さったからだ。

 

****************

 

⑮結語

 「自分たちはもう歳をとってしまって、奉仕も出来ない」「高齢化が進み、どんどん人が減って献金も減って、展望が見えない」という声が届いた。

 

 しかし、み言葉は我々に語っていた。

 

 空っぽになる時。わたしたちは決して無力になるのではない、と。

 

むしろ、ちいさな者であることを自覚しつつ、空っぽになる。そうだ。命を献げる時に、神の国の完成に役立てるのだ、と。

 

 「さあ、共に生きよう」(第62回 年頭修養会の主題、当日の讃美歌も「さあ、共に生きよう」)

 

 動けなくなっても、自分のいのちを、生涯を捧げる覚悟と心を持つ者を、主は顧みて下さるのだから。感謝して祈ろう。

 

****************

 

◆祈り
 感謝します、主よ。小さいものであること、取るにたらないものであることを感謝します。

 

 あなたに、自身を献げ尽くすことを通して、世の為に生き、そしてまた、自分自身が主の僕としての人生を全う出来るように、導いて下さい。

 

 主のみ名によって祈ります。アーメン

 

2014年

1月

12日

2014年1月12(日)№106 『 偏頭痛がしない 日曜の夜のヒミツ 』

 

きょうは、礼拝を穏やかに終わり、集会室で《お抹茶》を楽しむときを過ごした。

 

いつもの教会のティータイムとは違う時間だった。Nさんがふとしたことから、準備してくださった。

 

《お抹茶》に触れて、いいなと思うことが幾つもあったのだが、何年か前に、新潟県の豪雪地帯に暮らす友の家=牧師館を妻と共に訪ねたときのことを思い出した。

 

そのとき彼は、中国茶を煎れてもてなしてくれたのだった。

 

専用の茶器もいろいろあるようで、最近手にしたというグッズも使いながら、あれこれと説明もしてくれた。彼はどこかに出張に出かけると、専門店を訪ね、香り高いというのか、彼の味覚に合う茶葉を求めて歩いているらしい。

 

そもそも、彼にとっては、そうやってブラブラとすることが、重要なリフレッシュタイムということなのだろう。少し照れながら話す彼の中国茶の世界にまつわるうん蓄に耳を傾けながら楽しんだのだが、それもまた、心地よい時間だった。

 

その中国茶のもてなしを受けた時に感じた心地よさが、今日のお抹茶のもてなしの時間にもあったのだ。

 

わたしはただ、そこに居ただけなのに。

 

**************

 

お茶を愉しむ。

 

稚内にやってくる前、福岡で暮らしていたのだが、北九州に本拠地を置くFM局の人気男性パーソナリティーのTさんが、意外に感じることを口にしていたのが頭に残っている。

 

裏千家か表なのか、よくわからないけれど、例えば「明日はお茶のお師匠さんに会いに行く」というようなことを放送中に年に何回か口にしていた。

 

何が楽しいのだろうか。

 

どうしてこの人が?

 

そんな感じでラジオを聞き流していた。

 

彼は物真似もうまく、芸達者で、声も抜群にイイ。機転も利くし、ニュースも読める。ちょっと古めのヨーロッパ車に乗る所も相通ずるところがあって好きだった。生きている世界はまったく違うけれど、なーんか、気になる人だったのだ。

 

そして「茶道」のことがずっと頭から離れなかったが、今日、少しその答えが見えたような気がする。

 

*************

 

珈琲を煎れるのがわたしは好きで、毎晩、日中、誰かが煎れてくれた珈琲をがぶがぶと飲んだりしない限りは、自分でドリップする。機械任せではない。

 

お湯を沸かす。お湯のグラグラ具合で、だいたい90度に近くなったか、超えたかはわかるけれど、念のために温度計も使う。人の感というか経験値は以外に当てにならないことがある。季節によっても冷め方は随分違うし。

 

一回一回豆を挽けば更においしいことは十分承知している。けれど、そこまでは凝らない。時間もないし、疲れた体にはその数分がつらいこともある。

 

器もお気に入りを用意し、当然温める。

 

豆の分量を量り、残りの豆を適当にミックスしてブレンドすることもある。

 

豆を蒸らす30秒を待ち、ゆっくりと「のノ字」を書くように、専用のポット、つまり、先の細ーーーいやかんでゆっくりとお湯を注ぐ。豆が膨らみ始めると嬉しい。細やかな泡が出てくると更に嬉しい。豆の山が崩れないと自己採点はうんと上がる。

 

ただし、味とぴたりと一致しないことがあるのがまた奥深い。

 

誰かに見せるわけではないけれど、確かに、珈琲を煎れるあの台所のカウンターに立つ時間は、わたしにとって数分間だけど異空間なのだ。

 

************

 

今日のお抹茶の時間。

 

そこには心地よい空気があった。自分で点てた、というわけではないけれど、四国讃岐は干菓子の名産地らしく、お味も上等。

 

何より、自分はそういう時間も欲していたことを知った。

 

誰かの話を聴くときも、お茶を煎れる時間があるのと無いのとでは、随分違うとは以前から自覚していたけれど、もう少し大事にしたいものだ。

 

日曜日の夜は、偏頭痛がすることが多いのに、今日はしない。

 

なぜかな。

 

お抹茶のあの時間が効いているのか。ほかにも理由はありそうだが・・・end

 

 

2014年

1月

10日

2014年1月10(金)№105 『 神さまの振るタクトのもとで 』

 

年末さいごの土曜日の昼前。一本の電話が入った。

 

「父が召される事になりそうで、葬儀のご相談に伺いたいのですが・・・」と。

牧師になってからこの方、同様の相談がある場合は断らない事にしている。そしてまた、それがゆるされる教会に仕えさせて頂いて来た。都会の大教会では、このような対応は不可能だろう。

 

地方の地域に根差した小規模教会だからこその奉仕でもある。

 

****************

 

「どうぞ、お出で下さい。お待ちしています」

 

そう伝え、ストーブの設定温度を上げて、教会の集会室で待った。

 

お出でになったのは東京在住のM子さんだった。

 

わたしとほぼ同年代の方で、話を聴いていて思ったのだが、高校を卒業してからずっと東京に暮らして居るというM子さんとは、同じ大都会東京の空の下で青年時代を過ごしていたのだな、と思うと、少しばかり不思議な気持ちもした。

 

お父さまのSさんの葬儀をめぐる事については、稚内教会のホームページに記したので、よろしければ、そちらも読んで頂ければと思う。

 

****************

 

葬儀にかかわる一切がおわった、1月8日(水)の夕刻。

 

お兄さまとM子さんが居られる、教会から車で10分程のところにある市内のお宅で語り合った事。

 

それは、「神さまが導いて下さいましたね」という言葉だった。

 

まぁ、偶然と言えばそれでおわってしまうかも知れない。

 

でも、お父さまが、1月1日(水)午後5時45分に召されて行った、そのタイミングは、振り返って見ると、M子さんにとっても、わたしにとっても、これを逃すと、いろいろな事に支障が生じかねない、というドンピシャの「とき」だったのだ。

 

教会の行事にも一切支障がなく、次週日曜日午後から出発しないと間に合わない旭川での北海教区の年頭修養会・教区宣教会議・小規模教会協議会の出張予定にもぶつからなかった。

 

この季節は、吹雪に見舞われてもこれまた困る。

 

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神学生の時に牧会学を担当して下さったO先生の講義ノートが今も手元に残っていて、この度、久しぶりに、ファイリングノートを読み直す機会があった。

 

厳しい指導で鍛えて下さったO先生だが、今見直しても、気を引き締めさせられる気持ちになる事を教えて下さった事がいろいろとある。

 

72時間。葬儀の連絡があってから掛かるよ。一切をキャンセルして臨めと。確かに、そのような「とき」を捧げるのが、われわれの務めかも知れない。

 

O先生は、プロデューサー的な役割を牧師は葬儀の時にするのだ、という意味の事を神学生に向かって言われていた。確かにそれは否定できないが、実は本当のプロデューサーは神さまご自身で、タクトを見えないところで振っておられたのだ。

 

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今回は、特になんだかあれこれを抱えながらの奉仕となった。

 

元旦は11時から礼拝もあったし、1月5日は今年最初の日曜日の礼拝。午後からは教会役員会も行われた。そして、6日の月曜日は「そろそろ稚内でも、〈平和〉を声に出してうったえましょう」という有志の会合も行われ、参加した。

 

どれもキャンセルなしで終える事が出来たのだった。告別式後の夜には、入門講座も行った。

 

Sさんがお正月に召されたという事で、葬儀会場となるホールも、少し時間をおいてからでないと、確保出来なかった事もあり、7日目の葬儀となったのだったが、これが、ご遺族にとっても、わたしにとっても結果的に良かったのだ。

 

一切は神の計らいと思う。

 

****************

 

今回の葬儀にはわたしも初めて経験する事があった。

 

市内のホテルで結婚式のお手伝いをする時にご一緒する、聖歌隊の方たち3人にもお出で頂いて、賛美を捧げて頂いたのだった。

 

3人には、教会に備え付けの、クリスマスに幼稚園のお母さまたちが着るガウンが役に立った。

 

3人のうちの一人は、つい先頃の稚内教会のクリスマスの愛餐会で、ソプラノソロで歌って下さった方だったので、なおのこと、ご一緒しやすかった。

 

告別式がおわって、火葬場に向かう直前には、また別の方が、「葬儀の中で読まれた、〈わたしは道・・・〉という聖書、そしてそれに関わるお話は、かつてゴスペルのクワイヤーで歌っていた時に、確かその言葉が含まれる歌でした・・・」と近づいて来てお話し下さった。

 

そして、「いつか教会をお訪ねしてもいいのでしょうか」とも言って下さるではないか。

 

ノンクリスチャンの方々がほとんどの葬儀だと予想し、賛美歌は、「いつくしみ深い」と「アメージング グレイス」とした。

 

献花の時、『讃美歌21』112番「イェスよ、みくにに」を選び、聖歌隊の方たちと共に4人で静かに歌い続けた。

 

イェスよ、みくにに おいでになるときに
イェスよ、わたしを おもいだしてください。

 

フランスのテゼ共同体の特徴ある曲だ。

 

だから単純でも心に残る。とても良い選択だった。おそらく、彼女たちにとっても忘れられない経験となっただろう、と想像する。

 

****************

 

明日以降、北海道の日本海側には、10年に一度の寒気がやって来るらしい。

 

マイナス40度ほどの寒気団。想像が付かないけれど、それが葬儀に重ならなくて、これまた助かった。

 

神さまのなさる事に無駄はない。その事を今、あらためて深く思う。指揮棒を振って居られた神は、わたしたちの事を「鳥瞰(ちょうかん)」して下さっている。end

※【鳥瞰(ちょうかん)】
鳥が空から見おろすように、高い所から地上を見おろす事。また、全体を広く見渡す事。明鏡国語辞典 第二版 2011より

 

 

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