2013年

8月

31日

2013年08月31日(土) №72 『 増補改訂版 牧師室便り No.17号(8/25発行分) 』

 

長文であります。時間と体力が無いときは、PASSして読み飛ばしてくださいませ。

 

冒頭から“お尻”の話で恐縮だが、7月24日、ここ一年の悩み事だった〈痔ろう〉の手術を札幌の日本でも有数の専門病院で受けた。このBlogでは、No.58から一連の出来事を記している。

 

最近、「もりセンセイ、痔ろうだったんですかぁ」という言葉を、元・看護婦の方から(看護師時代以前の世代)話し掛けられた。印象としては、「そりゃ大変だわぁ、センセイ」ということだったように思う。

 

確かに、お世話になった病院の理事長先生も、一番やっかいな手術の一つと記されていたと思う。

 

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既に、一ヶ月以上が過ぎ、胸を張って“お尻美男”になりましたよ、と報告したいところなのだが、実は、完治したという実感はまだない。

 

先頃、通院のために札幌まで(初めてのことだが、飛行機を利用して一泊二日で行ってきた)出掛けたのだが、その時までは化膿止めを塗ったガーゼ交換が続けることが義務付けられていた。

 

重ね重ね、びろうな話で申し訳ないが、病院用語で「お便」が出れば、シャワーが望ましく、そのたびに、化膿止めの薬をガーゼに塗って“処置”する日々だった。7日間の入院で済んだ分は、自己管理が必要というわけだ。

 

退院後、円座を幾つも購入したり、ある方からはプレゼントして頂いて、円座を使わないとこの間まではそれなりの痛みがあった。それであまり出歩くこともせず、静かに暮らしていた次第である。

 

それにしても、夏でよかった。冬場の傷口の管理は、この稚内ではかなり大変だっただろう。機会を逃さず手術へと送りだしてくださった教会の方々、そしてまた、様々な形でお力添えくださった方が現れて、ただただ感謝である。

 

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退院後最初の日曜日は8月4日だった。

 

北海道をぐるーっと自家用車で回っておられた、大阪からお出でになった〈名越さん〉というわたしと同じ年の男性が礼拝に出席された。

 

週報やら牧師室便りに「痔ろうの手術をしました」と記していたこともあり、名越さんは、親近感をもってくださり、ご自身も30年ほど前に同じ痔ろうの手術をされたと語りかけてくださった。

 

もちろん名越さんのお人柄もあるとは思う。しかし、クリスチャン同士の親しさにも増して、一瞬にして心の中の壁が無くなり、礼拝後の会話が弾んだ。

 

名越さんを通じて思い出したことがある。

 

それは“病者の一体感”のようなものだった。子どもの頃からスポーツマンを自認していたわたしであり、今もはたから見れば何の苦労もなく元気そうに見えるわたしなのだが、実は、かなりの回数と日数の入院を経験してきたのだった。

 

特に、20代中頃には度々、大型のスーツケースをゴロゴロと転がしては、東京・お茶の水にある順天堂大学附属医院やその関連病院。はたまた故郷大分市の病院などに長期の入院生活を繰り返して居た。

 

そして40歳になる前にも一度、消化器内科系の病気で長期入院をした。幸い今は(本当に奇跡的に)完治したと言える状態なのだが、特に20代の頃は、何度も心が折れたものだった。自分の努力で何とか道は拓けるものと思い込んで生きていた者にとって、全く思うとおりにならない慢性疾患。本当の意味で挫折を知ったのもこの頃だった。

 

死を意識し始めたのもその頃のことだ。闘病と言ってもオーバーではない感じの時期を過ごしていたと思う。

 

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もう一つ、今となっては、牧師として得難い経験をさせて頂いたものだと思うことがある。

 

40代後半頃、眠れないなんてことが全くなかった人間だったのに、不眠に苦しみ始めたのだった。振り返ってみれば、その当時は猛烈なストレスが多方面から押し寄せて来たようで(忙しくもあり、緊張感もあって病気という実感はなかったのだが)、すでに、病気だったのだと思う。

 

不眠=病的な状態という判断を当時は自分ではできなかった。普段からお世話になっている内科医から頂いた入眠剤。幾つか重ねて飲んでも眠れなくなってしまった。

 

とうとう、年の暮れに妻と映画を観ていたときに、自死していった仲間とか教会の方たちのことばかりが目の前にグルグルと動き始めたのだった。

 

映画が終わった瞬間、妻の手を握「助けてくれ。恐い」という意味の事を口にし、大型ショッピングセンターの中のロッテリアで、手を握っていてくれと頼む状態だった。

 

その後、とても恵まれた開放型の素晴らしい病院を紹介して頂き、さらには、優れた医師の助言を受けながら休息を取ることになったのだった。本当にいい経験となったと思う。

 

心の病を経験し、症状は違っても多くの方たちと病院で出会えて、静かに人生を見つめることができるようになったのだった。ある時期には、入眠剤を3種類、そして安定剤を2種、更に、弱めのものだが抗うつ剤も必要な時期を過ごした。

 

主治医は「働きの場を変えれば、森さんは必ず元気になる」と断言されていたのだが、本当にそうだった。稚内に暮らし始めてからは正に嘘のような話なのだが熟睡し、かつ、基本的には不安も何もなくなってしまった。悩みがないというわけでは決してないが。

 

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こうなるとわたしの場合行き着くのは、病床での洗礼、あるいは、病気をしたからこそのキリストとの出会いということになる。回り道や遠回りは、通らなければならぬ必然だったということを思い起こさせてくれるのが、わたしの場合、病であり病院なのだ。実に不思議だ。

 

簡単には実現はできないけれど、稚内教会に幾人も居られる非常に困難なご病気の方々、そして、介護や寄り添いの日々の方。あるいはペットロス、更には、大切な方を天に送られて悲嘆や痛みを抱えている方々が気楽に語り合える集いがあれば、有意義だろうと思う。

 

かつて仕えていた教会では、グリーフケアの集いを定期的におこなっていたが、時が来て導きが示されれば、当地に於いても、そのような場を提供できるようになりたいものだと思う。ただし、ハッキリと申し上げられるのは、「わたしは救えない」ということである。

 

ピアカウンセリングという方法があるが、まさに、同じ経験をしたものだからこそ聞き役になれたり、寄り添いができるということがある。そのような働きが自然となせる教会、交わりが生まれる日を待ち望んでいる。

 

来客者が増えた夏。秋を前にそれを実感している。礼拝にお出でくださる旅人が、去年よりも確実に増えた。こまめにホームページのBlogや写真館を更新していて、最北の町にも教会あり!と発信していることも良かったのかも知れない。

 

そして、傷ついている者が多くいる教会だからこそ、提供できる何かがあるのではないかと思うのだ。多くの人々に慰めと深いところでの癒しを指し示す働きを続けたH・ナーウェンという方が居られたが、彼が記した幾つもの本を思い起こす。

 

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最近の我が家=牧師館。妻の美樹さんは、夕飯の片付けと朝食の段取りが終わったあとに、何やらモソモソと動き始めることが多い。手強いカニの甲羅や足もパキンと切り落とせる料理バサミで、利尻昆布を1リットル入りのボトルにパラパラと切り落とし、水を入れているのだ。

 

こんぶバザー開始時に大慌てで作った昆布関連の小冊子に載っているが、大阪の昆布問屋の社長さんが発見した《こんぶ水(すい)》仕込みをしている。多分、もう、やめられないのではと思う。それ程、こんぶ水を使うと料理がうまいのだ。

 

利尻昆布を縦5㎝前後、幅は1-2㎜程に10グラム分を切り刻む。そしてボトルに1リットルの水を入れて冷蔵庫に保管するのだが、それが、例えば和風スパゲティー、味噌汁、ご飯にも、煮物にも、いえいえ和洋中の全ての料理に力を発揮する。料理の味がマイルドで、美味しいなと思うと、必ず、昆布水が入っている。

 

利尻昆布おそるべし。いやいや万歳なのだろう。食が進んで困る。少しも痩せられない。

 

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7月中旬より、漁師さんによる昆布漁も再開。徐々に昆布が入荷し始めている。それを受けて、しばらくstopしていた「利尻こんぶバザー」が動き始めた。

 

各地の皆さんに愛され、末長く続けるための一つの鍵が最近みえてきた。それは一度きりの購入ではなく、とにかく使って頂かなければ、利尻昆布のおいしさと奥深さは絶対に伝わらないということだ。

 

リピーターが生まれるか否か。それが昆布バザーを続けていく鍵だろう。そのような助言も遠くから頂いたりした。もちろん、謙虚に、喜びをもって、何が一番の目的なのかを見失わないようにしなければならないが。

 

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それにしても昆布に関わる働き。実に奥深いものを感じている。昆布は捨てるところが全くない、とよく言われるのだが、正にこの働きを通じての出会いや気付きは深いものがある。

 

人生学ぶに終わりなし。

 

自分でもまさかこのような働きに仕え始めるとは思いもしなかったというのが本音である。神さまってすごいなと思うのである。end

 

 

2013年

8月

25日

2013年08月25日(日) №71 『 うひゃ! 利尻昆布入札 70パーセント高値 』


『利尻昆布バザー』を稚内教会が始めてからもうすぐ4ヶ月が過ぎようとしている。

何とか軌道に乗るところに漕ぎ着けたいと思いながら、日夜精進の毎日である。

 

あら?精進って、仏教用語かしら。まぁまぁ気にせずにいきましょう。とにかく、あれこれ出会いを楽しみながら、方策を練っているところである。

 

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3日前の夕方だったか、市内の車で15分で行ける漁師さんの所に、妻と共に出掛けた。

 

これから先、仕入れさせて頂く昆布は、出来るだけ自分たちで切り分けますので、今後は、漁師さんの負担を減らして行きたいと思います、と伝えるのが目的だった。

 

目的地の小さな漁港に近づくと、港と一体化している漁師さんのお宅の前の道路端で、父さんが何やら軽トラから降ろしておられたので、「こんにちはー・・・」と妻と共に寄って行った。

 

すると父さん。少し小声で「あんたらぁ、入札結果は知ってるのかい?」と(多分)言われた。

 

そう、利尻昆布は、稚内の漁業協同組合で開かれる市場?の入札で、各グレード毎(味は変わりません。見栄えの問題です)に価格が決まることになっている。というか、そういうものなのだということを、わたしの場合、この半年ぐらいで知るようになった。

 

わたしはその件について何にも情報を持っていなかったが、妻は午後3時過ぎに届いた地元日刊タブロイド新聞『稚内プレス』に記事が出ていたのを読んでいたらしく、すぐに反応。「うん、うん、父さん見たよっ」というような言葉を発した。

 

あー、そうだったのか、と気楽な気持ちで居た所、父さんはこう口にされた。「あんたたち、買えるのかい。1駄(15キロ)当たり15,000円も上がったぞぅ」と。

 

な、な、何と言うこと。

 

帰宅してから稚内プレスの記事を見ると確かに大きな文字で報じられている。

 

「70%高」と。

 

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わたし自身はとりわけ算数にも弱かったこともあり、正確な計算は出来なかったけれど、昨日、計算に強い教会のご婦人が掃除においでになった時、妻に話し掛けてくれたそうだ。

 

「あの値段だと、ひと袋あたりの教会の収益は〈○円〉なのよ。せっかく軌道に乗り始めたと思っていたのにねぇ」、と口にされたとのこと。

※〈○円〉は誤解だったと判明も、かなりシビアな数字と知る。

 

説教準備の集中時間に入り掛かっていたわたしの元に急いでやって来た妻は、「ねぇねぇ、センセイ、○○さんから今聞いたんだけど・・・利益はひと袋〈○円〉だって」と伝言。

 

わたしは、その言葉の意味がその時は、ハッキリと分かっていなかった。正直言えば、今もまだクールに算盤勘定というか、もろもろのことを整理するに至っていない。

 

これって大ピンチ?

 

何故、一気に前年比70%高の値段が市場で付くのか、と言うならば、今年の昆布は大不漁らしい。今の所、毎年の平均収穫量の10分の1程しか昆布が採れていないらしい。漁は9月末迄続くと聞いているので、最終的にはどうなるか分からないが、だいたい、最初の値付けがあとの相場に影響を与えるものの様子。

 

確かに、数ヶ月前から、『稚内プレス』にも不漁予想情報が流れていた。

 

その道に通じている漁師さんたちは、昆布漁が出来るポイントを、それぞれのオラが海で周知して居られるらしく、昆布の成長ぐあいは、解禁前から目視で大体は確認できると聞いている。

 

いやはや、高値も心配だが、仕入れしたいと考えている昆布自体が限りなく少量で、高値でもバンバン一切の迷いなしで買うことが出来る関西方面の問屋さんや商社に太刀打ち出来るわけがない。

 

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と言うわけで、『稚内教会の利尻昆布バザー』。暗雲が立ちこめているのか? いやいや、「ピンチはchanceだ」と信じたい。だいたいそれが俺の人生だったじゃないか(落ち着いて、おちついて)。

 

利尻島の漁師さんとの2週程前のやり取りでは、「何百キロも要るわけじゃないんだろうから、大丈夫。お盆過ぎるまで少し待って・・・」と落ち着いた言葉が確か聞こえた。

 

さてさて、これから先、ジタバタせずに、教会の皆さんと相談しながら、取り組みたいと思う。今回のBlog。言うなれば、ちょっと頭の整理というか気持ちを整えて行きましょう、の情報開示というわけであります。

 

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ちなみに、来年=2014年は、利尻島産の方の利尻昆布(「利尻昆布」は学名ですから、宗谷近郊というか、北海道の北の方の海の昆布はすべて「利尻昆布」と呼ばれます)の方は大豊漁(の見込み)らしい。

 

既に、ちびっ子昆布が“バッチリ・ぎっしり”岩場に育ち始めている、と7月にお訪ねした時に漁師さんは仰っていた。

 

世の中、ムツカシイものだと思う。

 

でも、道内の仲間たちや、全国各地の教会の方々や友人たちから伝わって来ている「いい取り組みじゃないか!ガンバレ」の声を励みにして、誠実に歩いていきたい。

 

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一昨日、とある教会のご婦人に昆布の業務連絡をご自宅に入れたときに、「稚内教会牧師のもりでございます。昆布のことで・・・」と話始めようとすると、なぜか先方、笑いだしたのだった。

 

どのような文脈で笑いが出たのかは正確には分からない。

 

でも、わたしは思った。なーんか昆布ってのは、心の距離をぐんと近付けてくれるんだよなぁ、と。

 

勝手な思い込みで言えば、「あーら、わっかないの昆布牧師・森センセイ・・・他のお仕事もあるのにぃ、ガンバッテルものねぇ、応援しているわっ」と伝えてくれたのではと。

 

何事も良い方向に解釈して前進いたします。

 

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わたくしの亡きオヤジも、唯一原付免許を持っていて、またがっていた50CCのバイク(古い話ですが、1976年頃の、あの“ソフィアローレンのラッタッタ(ロードパルが正式名)”からです)は、右折も左折もなかった。前進あるのみである。

 

信号が赤になれば止り、黄色になれば減速は当たり前だが、右折と左折はなし。決して危険な交差点には突入せず、急ハンドルは一切なし。ぐるーっと緩やかに時間が掛かっても回って行くうちに、いつしか目的地に着くというやつである。

 

わたくし、その父の息子です。応援よろしくお願いいたします。end

 

 

2013年

8月

19日

2013年08月19日(月) №70 『 E子さんの背中に 天使の羽根が見える 』


 かつてわたしが仕えていた教会のE子さんというご婦人が91歳で召された。お知らせを下さったのは現任の牧師先生。その交わりに感謝だ。

 

 日曜日をはさんで月曜日が前夜式、火曜日が告別式ということだったので、祈りつつ、時を過ごした。

 

 弔電をお送りしたいと思った。何か記録が残っているかなぁとパソコンに検索を掛けてみた。Windows7では(以前からかも知れないが)、パソコン内部に関連するデータがあれば「E子さん」と打ち込んで検索を掛けると、そのありかを教えてくれる。

 

 すると、E子さんが証しされた時の原稿らしきものが出てきた。詳細はすっかり忘れたが、何かの理由でわたしが清書でもしたのだろう。

 

 一部分を引用してみたい。たぶんE子さんは大正11年位のお生まれで、戦争に関連する言葉も出てきて、その情景が思い浮かぶ。

 

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 【私が洗礼をお受けしましたのは、○教会で、太平洋戦争が終わった年(1945年・昭和20年)のクリスマスでございました。

 

 求道中は、家族と共に東京の恵比寿駅の近くに居りまして、毎日空襲という日々でした。でも、家族の中で教会に通っていたのは、私一人だけでした。その当時お世話になっていた渋谷教会の礼拝のさ中、窓ガラスに石を投げられたりして、これもまた恐ろしい時代でした。ですから、その頃、洗礼式はひとつもありませんでした。祈祷会は地下室で行なって居りました。

 

 やがて、東京の家が運よく強制疎開の地域になりまして、○○という所へ疎開のために帰って来ることが出来ました。受洗の時は今と違って10人、また、それ以上の方々と同時でした。しかし、厳粛な気持ちは今と変わりありません。新しく生まれ変わった時でした。

 

 それまでの私は、何となく父母を頼っていたようでした。でも洗礼を受けてからは、父母を頼っていたのが、神様にお頼りする気持ちに変わりました。】

 

 戦中の体験を踏まえつつ、これまでとは違う希望が信仰によって与えられ、新生の経験が明確に言葉にされていて心を打つ。

 

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 E子さんから、わたしは大きな励ましを頂いた思い出がある。それは説教に関しての言葉だった。E子さんはそのことをご記憶だったかどうか、もちろんもはや分からないが。

 

 ある日曜日、わたしは準備した説教を講壇から語り始めた。

 

 その時のわたしにとって、その聖書箇所はとても難しく感じているものだった。今でも同じ箇所からみ言葉を語る自信は無いかも知れない。

 

 とにかく、語れば語るほど、自分の口から発せられる言葉が礼拝出席している皆さんの心はおろか、席に着地せず、“ふわり、ふわふわ”と舞い上がり、宙に浮いていくのを感じていた。

 

 逃げて隠れたい。早く終わりたい。しかしどこにも逃げ場は無いし、語れば語るほど収拾がつかなくなり時間が長引いていく。追い込まれた気分だった。しかしそれでも何とか語らなければならない。

 

 「男はつらいよ」ではないが、「牧師はつらいよ」である。

 

 おそらく、今より若かった分、とにかく無い知恵を懸命に絞り様々な文献にもあたったと思う。そして、出来る限りのことをしたはずだ。でも、たぶん、確信を持つところに至らなかったのだろう。

 

 何とも言えない敗北感というのか、虚しさを抱えたまま礼拝が終わった。

 

 あーあ、全然ダメだ。そんなことを思いつつ、うなだれた気分でいたわたしはE子さんとすれ違った。いつもお座りになっている壁ぎわの、後ろから二番目の席だったはずだ。

 

 驚くべき言葉がE子さんの口から聞こえてきた。

 

 「先生。きょうの聖書は今まで分からなかったのですが、森先生の説教で初めて分かりました。ありがとうございました」と。

 

 救われた、と思った。

 

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 おそらくその日礼拝をご一緒した他の方たちにとって、わたしの語った説教は消化不良を起こさせるか、ちんぷんかんぷんだったのではと思う。

 

 けれども、牧師にとっての喜びは、たくさんの人に納得してもらうようなことではない。ただ、ひとりの人の魂に、何かが届けばそれでいいものなのだ。少なくともわたしの場合はそう信じている。

 

 E子さんのその言葉によって、わたしは今まで支えられ続けて来たことを思い起こす。

 

 小さな背中が、少しまーるくなってからのE子さんとわたしは出会った。今はその背中に、天使の羽根がついて空を舞っているのか。

 

 わたしが落ち込んだ時、どうぞ、その羽根をつけて、遠慮なく舞い降りてください。

 

 E子さん、本当にありがとうございました。end

 

 

 

2013年

8月

13日

2013年08月13日(火) №69 『 昭和三十五年生まれの私 今年の夏に思うこと 』


昭和20年8月15日に終戦を迎えた日本。わたしの父は昭和2年、母は昭和6年生まれで、それぞれに、しっかりと物心ついてから戦争を経験し、終戦を迎えていたことになる。

 

しかし、昭和35年(1960年)生まれのわたしは、父からも母からも戦時の苦労話や悲しみの経験を聞くことがないまま、二人をそれぞれ天に送ってしまった。

 

まぁ、戦争のことのみならず、両親から聴いておきたかったこともあるのだけれど、かなわないこととなってしまい、いささか悔いが残っている。

 

今年わたしは53歳。15年前の自分はどんな風だったかと言えば、38歳の新米の牧師として、力一杯に走り出していた頃だ。

 

で、15年前は遠い昔なのかと言うと、決して大昔なんかではない。10年ひと昔+5年。いや、自覚的にはついこの間のことになる。

 

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とすると、わたしの両親にとって、あるいは、その周囲に居た祖父母にせよ、近所のおじちゃん、おばちゃんも、親戚のおじちゃんたちも、わたしが生まれた昭和35年というのは、ついこの間、戦争が終わったばかりだった、ということになる。

 

生まれ育っていった昭和35年から、40年代、50年の中学の頃までに、「ついこの間まで、戦争があったのだ」という気持ちになっていたかと言うと、そうではなかった。そして、恥ずかしながらその後も、そういう自覚がないまま高校生となりいつの間にか成人し社会人となっていた。

 

わたしは鈍感だったのだろうか、やっぱり(笑)。

 

九州の大分県大分市の大在(おおざい)という浜辺の《村》(今は町と言える程に発展?小学校も二つになっている)、あるいは、部落の集まりの地域に育ったわたしは、卒園した幼稚園の近くに防空壕があることをハッキリと覚えている。

 

けれども、その防空壕に、ついこの間までは、地域の人たちが身を隠し、戦火から逃れていたという気持ちを殆どもっていなかった。

 

3歳年上の姉はどうだったのかと思う。

 

姉も10数年前に亡くなっているので、姉の思いを聴くことは出来ない。末っ子でノホホンと日々を過ごし、さして物事や家族の軋轢などについても深く考えることが出来なかったわたしと比べれば、もしかすると姉は、だいぶ違う気持ちでいたのかも知れない。

 

どうだったなぁ、お姉ちゃん。

 

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《高度成長時代》について、WEBで調べて見ると、【高度経済成長期を前半と後半に分けると、前半期は昭和30年(1955)から昭和39年(1964)までで、後半期が昭和41年(1966)から昭和47年(1972)までだと云われています。】というような解説が出てくる。

 

わたしや姉、あるいは同世代の仲間たちを、スッポリと包んでいたのが「高度成長期」というものであり、《行け行けどんどん》の真っ只中に身を置いて生きてきたことになるわけだ。

 

わたしから見ての《おとなの人たち》は、われわれに、もしや、戦争を感じさせないようにと無意識のうちに振舞っていたのではないか、とすら思う。

 

そんなことを、わたしは最近感じるようになっている。それが、良いとか悪いではなくだ。

 

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こどもの頃、わたしの通う小学校の2キロばかり通学路は、まだ、鋪装されていなかった。時に馬が引かれて行くのも見ていた。トヨタ・カローラと張り合っていた日産・サニーが、田んぼの真ん中の道でエンコし、ボンネットから煙を噴いているのを見たりしたこともあった。

 

真空管のテレビのスイッチを入れてから、画面にニュースを読む人が現れるまで30秒か1分近くかかったような気がする。もちろん、白黒テレビだ。

 

家族6人で夕飯を食べているとき、TBS系の「ニュースコープ」という番組が流れていた。古谷 綱正(ふるや つなまさ)と入江 徳郎(いりえ とくろう)というおじさんたちが、ベトナム戦争のニュースを伝えていた。

 

そしてまた、【コンバット】というアメリカとドイツが闘うドラマを感動、或いは、興奮しながら姉と二人で見ていたのも記憶している。

 

ところが、【コンバット】を見ながら、少なくともわたしは、ついこの間まで、日本でも戦争が・・・・という意識が殆どなかった。

 

祖父母も両親も、なんにも話そうとしなかったのではないかと思う。

 

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小学校4年の頃だろうか。カラーテレビが登場。未来は明るかった。これからの世界がますます色付きはじめ、希望があふれていた。

 

父のきょうだいである一番下の叔父が日立製作所の家電部門で働いていたから、うちは何かあれば〈日立〉だった。

 

したがってテレビは“キドカラー”であり、“ポンパ”だった。それを宣伝する飛行船が大分市大在の上空にも飛んでいたし、全国を回ってくる“ポンパ号”という国鉄の汽車も国鉄大在駅に停まった。

 

わたしの育った大在のあたりは国鉄の電化など当然進んでおらず、蒸気機関車が真面目に当たり前だったのだ。

 

いとこが東京からやって来て、D51の蒸気機関車の写真を嬉々としながらカメラにおさめる姿が不思議でならなかった。

 

「けいすけちゃん、何が珍しいの?」と思ったものである。

 

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1900年代という20世紀を生き抜いた人々、あるいは、戦争世代と言える方たちが、次第に数が少なくなっていく。

 

『 少年H 』という戦中戦後のご自身とご家族を巡る本を書かれた妹尾河童さん(舞台芸術家・イラストレーター)が、ご自身の本を元にして完成・公開されている映画について語る姿を最近見掛けた。

 

妹尾さんのご両親は、わたしたちと同じプロテスタント・日本ナザレン教団の、特にお母さまが熱心なクリスチャンだった。

※妹尾さんの信仰については未確認も、キリスト教から大きな影響を受けていることだけは確実。

 

戦争はあっという間に始まってしまい、簡単にはやめられないと語っておられた。妹尾さんは父より少し年下。母とはほぼ同じ年ではないか。

 

何やら、いつの間にか戦争が始まってしまった、というようなことをわたしは恐れる。もしやという気持ちにさせられることが、今、時にあるのだから。

 

53歳のオヤジ=わたしが、万が一にも徴兵されることなんてないだろう。今や100メートルすらも全速で走りきる自信もない。

 

父が、母が、青い空の元に子育てをしてくれていた頃、静かに胸に秘めていた思いを、新たな気持ちで受け継いでいかなければいけない。

 

2013年夏、終戦記念日を前にふと思い、記してみた。end

2013年

8月

09日

2013年08月09日(金) №68 『 “季節”と“食べ物” の思いでから 』


一昨晩だっただろうか。夕飯を食べながら妻にぽつりと語った。

 

ある町に暮らして居た頃の食卓に、どんなものが出てきたのか、ほとんど思い出せないのだ、と話をした。

 

ま、そうは言っても、お気に入りの魚屋さんのお刺身だけは覚えている。

 

たとえば、《かわはぎ》の刺身。肝が添えられて旨かった。ポン酢でいただく、かわはぎの味は忘れられない。肝も最高。

 

でもそれ以外があまり思い出せない。

 

忙しすぎる生活をしていたのかな、とも思う。たいせつなものを見失っていたのがその当時の暮らしだったのかも知れない。それが当時のわたしの限界だったのだろう。

 

しかし、それに比べると、稚内、そして新潟県の上越市で暮らして居た頃の食卓は、非常に豊かな季節感があった、ということに気が付いた。

 

どちらも冬は厳しい。

 

上越の高田という町は日本有数の豪雪地帯で、「この雪の下に高田あり」という言葉で知られる町だった。

 

高田では寒い冬に、水ようかんが売られていた。不思議なほどあれが美味しかった。

 

あの町のお味噌屋さんの味噌も、たいそう、味わい深かった思い出がある。妻は日本酒の美味しさも知ったようだ。

 

秋、上越でコシヒカリを作っている韓国出身の農家のお嫁さんが、「先生、食べて下さい」と言って届けて下さったお米。

 

まさに、銀シャリ。

 

ぴかぴかに光っていて、ご飯だけでもいくらでも食べられる程だった。

 

稚内でも味わえるが、あちらの甘海老といただいた銀シャリは、その絵を思い浮かべるだけで、お腹が減り始めるほど。

 

その他、新潟の春は、山菜がとても豊富だったことも思い出す。

 

稚内も自然環境はとても厳しいのだけれど、季節の食べ物の楽しみが大きいように思う。

 

地理的にもいろいろとハンディがあるから、決して何でもあり、というわけではないはず。それでも、食材、とりわけ、魚介類と共に季節の移り変わりを感じられることは幸せなことだとなぁ、と今頃になって気が付いた。

 

季節の移り変わりと共に、食卓にのぼる魚が少しずつ変わっていく。

 

最近は平目の刺身が旨いなぁと思う。鯛や平目というけれど、稚内で売られている平目のさくは、なぜか決して高価ではない。

 

野菜も旨い。この季節だけしか稚内の家庭菜園は野菜作りは出来ないはずだ。キュウリ、インゲンをある方たちから頂いたのだが、素晴らしい。味がしっかりしていて幸せだなと思う。冬を越したジャガイモだってたまらない。

 

そうそう。

 

利尻昆布で出汁をポットに妻がとっていて、いろんな料理にそれを使っているのも、効き目が出始めていることに気が付いた。昆布だしをたっぷり使う生活なんて、これまで知らなかったのだから。

 

いりこ・煮干だけよりヤッパリおいしいですな。

 

各地から届く名産の菓子なども、ようやく、少しばかりだが、その町の風景と共に考えることができるようになってきた気がする。

 

神さま、ありがとうございます。end

2013年

8月

08日

2013年08月08日(木) №67 『 結婚式物語 その3 たぶん最終回 (笑) 』


嬉しいメールのお便りが届くと元気が出てくる。No.65とNo.66でご紹介した結婚式の福音。きのうはまた、花嫁その人からメールでお便りが届いた。

 

新郎新婦のお住まいは、わたしが青年時代のある時期を過ごした懐かしい東京の練馬とお聞きしている。前に向かって生きていこうとする決意と祈りが深いお便りでこころ熱くなった。一部をご紹介。

 

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森牧師様、こんばんは。


 先日(8月3日)に、○○○○○ホテルにて結婚式を挙げて頂きました○○です。
この度は、本当に素敵な結婚式をありがとうございました。私や主人にとってはもちろん、二人の娘たちにとっても本当に忘れられない式となりました。

 

私は6年前に離婚し、シングルマザーとして二人の娘を育ててきましたが、縁あって今年の3月に再婚をしました。

 

・・・上の娘は中学生で思春期ということもあり、難しい年頃。そんなこともあり、式などはしないつもりでおりました。主人は、まだ29才で初婚でもありましたし、きっと式をしたいだろうことは分かっていましたが、まずは娘の気持ちを大切にしたいと考えてのことでした。

 

でも今回、父や姉達が企画してくれたサプライズ結婚式をして本当に良かったと思います。

 

式の後、上の娘が「お母さん、おめでとう。キレイだよ」と言ってくれました。その言葉を聞いた時は、なんとも言い難い感情が溢れ出てきました。

 

式のリハーサルの時に、牧師様が仰っていた言葉。

 「バージンロードは、今まで歩んで来た道。そして、振り返り歩むバージンロードは、これから歩んでゆく道」

 

これから歩む道は、険しいものになるかもしれません。でも、主人と娘たちと一緒に、一歩一歩を大切に歩いていきたいと思っております。本当にありがとうございました。

 

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誓いの言葉を交わされたお二人に、「誓いは言葉だから目に見えない。だから、その言葉を一生涯身につけていくために、指輪を交換・・・」とお伝えした。

 

結婚式の際にお伝えできなかった、わたしがたいせつにしている言葉を添えて返信。(以下に抜粋します)

 

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わたしにいまようやく確信できることがあるとすれば、それはとても単純なこと。

 

「遠回りが人を豊かにする 寄り道が人の魅力となる まわり道が人の年輪を刻む」ということである。

【 まるでおとぎ話のように 『遠まわり』 吉岡忍  朝日新聞 1996年10月6日号より】

 

上の言葉は、1996年当時ですから、もうだいぶ前に見つけて、新聞を切り抜き、これまで、大事にしてきたものです。わたしがさまざまな事につまづき、悩んでいた頃に目に留まったもの。

 

○○さんが記してくださった、

【これから歩む道は、険しいものになるかもしれません。でも、主人と娘たちと一緒に、一歩一歩を大切に歩いていきたいと思っております。】
という言葉をもしもかみ締めることがあるとしても、どうぞ、時に思い起こしていただいて、お二人らしく、ご家庭を形作って行って頂ければと祈ります。(以上、もりの返信文抜粋)

 

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新約聖書 ローマの信徒への手紙8:28にこう記されている。

 

【8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。】

 

このみ言葉は、尊敬する御師・今橋朗先生が編集された、ある小さな本(『深い淵から 希望と慰めのみことば』日本キリスト教団出版局 1800円)でのご紹介に依れば、アメリカの伝統あるキリスト教誌 『クリスチャン・センチュリー』がたびたび実施してきた「わたしを支えた聖句」というアンケートで、ほぼ毎回そのトップに選ばれる程に愛されている〈み言葉〉だそうだ。

 

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結婚式の出会いが与えられたご夫妻のみならず、わたし自身の人生の途上においても、そして今、本当に、苦しみながらもなお、前に向かった歩もうとしている、神の家族と共にこのみ言葉をかみしめたいと願う。

 

この度のよき訪れに触れて、わたしひとりに留めるよりもと思い、分かちあいたいと願った。

 

練馬からのお便り、本当にありがとう。

 

おわりにもう一つ、結婚式でも締めくくりに祝祷として祈った言葉を記そう。

 

○主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(Ⅱコリント書 13:13)

end

 

 

 

2013年

8月

06日

2013年08月06日(火) №66 『 結婚式物語 その2 やっぱり 神さまは居られる 』

日曜日、平和主日の礼拝、役員会が終わり、その後、幾人かの教会員のお宅を妻とお訪ねした。

 

いずれも、抗がん剤の治療を行っている方や、これから、治療を始めようとしている方たちである。

 

「じゃぁ、そろそろ失礼します。何もできませんが、お祈りさせてください」と伝え、つたない祈りを捧げる。「主よ、癒しのみ手を差し伸べてください」と。

 

祈らせて頂くことは、自分の無力を覚える時でもある。ご家族の思い以上の祈りなど、わたしにできるわけがない。

 

しかし、奇跡を起こしてくださるのならば、そうして頂きたい。そう心に深く思いつつ祈ることしか出来ないのだ。見えないけれど共に居られる神に委ねる。

 

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8月4日(日)は、稚内の夏の終わりを告げるかのような、大花火大会の日だった。去年は花火を見る元気もなかったのか、とにかく何も記憶がない。

 

今年は妻と二人、大黒の埠頭沿いに車で出掛け、わたしは車内で寝そべって花火を見た。2500発の花火は、美しさと共に何かしらのさみしさを伴うように感じる。何故だろう、と思っているうちに、ウトウトし始めた。

 

牧師館に戻って車を降りると、妻の声に、星空が花火以上に美しい夜だと気付く。二人、空を見上げていた。

 

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昨晩、シャワーを浴び、就寝前の手術後の処置をして、そろそろ休もうかと思いメールチェックをすると、このブログ『森牧師の部屋』の「メール・連絡」の欄から一通のお便りが届いていた。

 

昨日(NO.65)のブログで少し紹介させて頂いた、“青と白の翼のあるホテル”での結婚式で出会ったご家族からのメールだった。花嫁のお姉さまとある。妹さんだと思い込んでいたのに。

 

「家族を代表して長女の私からメールさせていただきました。本当に本当にありがとうございました。」でとじられていた。以下、配慮しつつ、感謝を分かちあいたい。

 

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8月3日、○○○○○ホテルで○○○○・○○○○のサプライズ結婚式を挙げていただきました。新婦の姉の○○と申します。

 

このたびは本当にありがとうございました。ホテルの方からお名刺をいただき、ブログも拝見いたしました。本当に想像していたよりも100万倍、素敵な式でした。森牧師の思いやりが伝わってきて感激いたしました。

 

挙式後、今まで出席したどの教会式よりも、森牧師、聖歌隊の皆さんの温かさが伝わってきたね。と新郎新婦はじめ家族全員で喜んで話し合っておりました。感謝しております。

 

妹は・・・・当初から結婚式は挙げないと言っておりまして。二人で決めたことなら…と思いつつも、新郎が本当は結婚式をしたがっていたことも知っており、残念に思っていました。

 

そんな時、父が「サプライズで挙げよう」と発案。

 

うちの両親は稚内出身で、今回は家族揃って故郷を訪ねる旅でした。そこでサプライズ結婚式。妹の着付けをしてくれた美容室も、写真館も偶然にも両親の結婚のときと同じところだったそうです。

 

挙式の時、家族みんな泣き笑いでしたが、寂しさでもなく、単純な嬉しさでもなく。紆余曲折、頑張ってきた妹の人生を祝福するような、妹や子供たちの父になることを頑張ろうとしてくれる新郎に感謝するような、なんとも言えない不思議な涙でした。

 

挙式の準備は婚礼担当の方とメールや電話でやりとりし、私がさせていただきました。打ち合わせを進めていく途中で新婦が妊娠したりして、おめでたくもあたふた大変でした。(笑)

 

当日までドキドキしましたが、こんなに思い出深い日にさせてくださったこと、心から御礼申し上げます。

 

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わたしも小さな返信をした。その中に記したのは、こういうことだった。

 

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何とも豊かな余韻のある、忘れられない8月3日(土)のお式となりました。忘れようにも忘れることができない結婚式が、時々巡って来ます。その多くが、少人数のご家族の列席とか、二人きりであることが多いのです。

 

記してくださったことを読ませて頂いて、あの時には伺い知れなかった皆さんの祈り、思いが、どれほど厚みと温かさがあるものであったかを改めて知りました。

 

あの日、メッセージの中で語らせて頂いたことは、ある意味で、自分自身のことを振り返りつつの言葉でした。作文ではなく、真実な思いを込めて、お二人、そして、後ろにお座りになっていた皆さんの心に届くようにと。

 

聖歌隊の方たちも、本当に感動していたと思います。誰かひとりの力でそうなったのではなく、みんなの思いが、あそこで一つにされて、これまでの皆さんの人生のすべてのことが必要な事だった。そういう時となったのでしょう。

 

二人のお嬢ちゃんたちも、あたらしいスタートが切れたのではと思います。なかなか、こういうことって、創ろうとしてつくりだせるものではありません。すごいな、と思います。

 

神さまいるんだって、牧師なのに改めて感じたりするのです。

 

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出会いが与えられているご家族の、さまざまな思いが交差する中を歩ませて頂いている日々に感謝だ。そこに、イエス・キリストの神が共におられることを思う。

 

2013年 稚内の短い夏の終りが、すぐそこまでやって来ているのを感じている。end

2013年

8月

05日

2013年08月05日(月) №65 『 結婚式物語 その1 』


稚内で一番大きく、格式のあるホテルは、おそらく、稚内の港近くにある飛行機会社系列の全国チェーンのホテルではないかと思う(無論、いろんな見方があるので違う意見もあるかも知れません)。ホテルとしては、シティー&リゾートと呼んでいるようだが。

 

全国各地にあるそのグループホテルの経営スタイルは、さまざまな形がある様子で、稚内の場合は、紆余曲折を経て、別の運営会社が請け負っているそうだ。

 

しかし、それにしても、全国ブランドの“白と青の翼のホテル”であることに変わりない。おそらく、全国各地の同一名のホテルと統一された教育を引き継いでいるサービスが行われ、スタッフの皆さんも、プライドをもって仕事をされているのだろうと思う。女性のユニフォームなど、cabin attendantのそれとそっくりである。

 

実は、稚内教会会員のお嬢さんが、少し前まで、そちらのホテルウーマンだったというご縁もあり、今年度から、キリスト教式結婚式が行われる場合、予定がつく限りは、わたしが司式をさせて頂くことになった。もちろん、役員会の了解のもとであるが、先日、初めての司式に出掛けて来た。

 

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これまでも、各地の結婚式場やホテルでも結婚式のお手伝いをさせて頂いたので、心配とか不安というようなものはなかった。

 

ただし、初めてお目に掛かる、聖歌隊の方々やオルガニスト、カメラさん、そして、結婚式関連のホテルマンと共に力を合わせるということで、いささかの緊張感があったのは本当のこと。皆さん、“せんぱい”で、こちらは“新米”。

 

でも全体を導かなければならない。

 

おまけに、結婚式をお迎えになる方には、なーんにも関係ないことであるのだけれど、まだ、痔の手術をして、退院間もないということもあったので、とにかく、無事に終了することを願いつつのお手伝いとなった。

 

そういえば、新潟の教会に居たときには、中越沖地震が起きた直後に近くの式場で結婚式が予定されていて、妻が泣きながら座り込んでるのを脇に見ながら置き去りにして、結婚式場に向かったこともあった。

 

やれやれ、あの時は大変でした。

 

兎にも角にも、依頼を受けている以上はぜったいに穴をあけることはできないという責任があるので、前日確認のみならず、場合によっては、今から式場に向かいますという当日callを入れることを求められることも外部の結婚式ではある。

 

それはそうだろう。

 

牧師が来なければ結婚式は始まらないわけだから、そういう意味では実にリスクが大きいのも結婚式なのである。

 

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この度の結婚式。

 

当日の朝まで、結婚式を挙げる新郎新婦のご両人が、そのことを知らない!というサプライズ結婚式だった。式を挙げないのはご当人たちの意志だったのかも知れない。そういうCoupleは時々居られる。とにかく、既に入籍されているけれど、結婚式は挙げていないお二人だった。

 

ホテルに到着して担当の方にあらためて確認してみると、「先ほど、新郎さまと新婦さまに、初めて結婚式のことをお伝えしました。今、お支度が始まっているところです」とのこと。

 

いやー、驚いただろうなぁ、お二人は。

 

ドレスなど、どのような段取りがされたか詳細は聞いていないけれど、ぴったりとしたものをお二人ともお召しになっていた。

 

稚内には家族旅行でおいでになったそうで、お二人の外に6名が列席のお式となった。

 

バージンロードと呼ばれることの多い真ん中の道。

 

わたしは、花嫁に対して、この道は(聖壇に向かう時は)「お父さまに代表されるご家族と歩んで来た道を意味するんですよ」と伝えることにしている。

 

逆に、「聖壇から新郎新婦が歩き出すのは、お二人があたらしい人生の旅路を、皆さんの祝福の中をスタートするのです」と語りながらリハーサルすることにしている。

 

その他、歩き方や腕の組み方、指輪の交換の意義、ベールのあげかたのポイント、キスの仕方等など、一連の動きもお稽古の時にお伝えするが、本番で、それを忘れることがあっても、乱れようとも、全く問題はない。

 

何よりも、一つ一つの意味を知っていて欲しいと、わたしはいつも願っている。

 

花嫁のお父さま。

 

わたしがこれまで知っている限りで一番の軽装で素敵だった。黒色系のjeansに、白のシャツを着ているだけ。60過ぎにお見受けしたお父さまはイカシテイタのだった。

 

式の終了直後、「聖歌隊、オルガニストと共に、今日はご一緒させて頂いて、わたしたちの方こそ感動しました。ところで、誰がこの日、このような形で準備しようと音頭をとられたのですか?」とご家族に聞いてみた。すると、

 

「お父さん」です、と妹さんやお母さまが言われるではないか。

 

照れているお父さま。幸せそうというか、やや、ハニカミながらうつむかれた。

 

下のお嬢さんから「おっとーさん! もう、どんだけ号泣するんだよ」との声。

 

うーん、改めて感動。

 

我が家に娘はいない。

 

けれど、もしも「ねぇ、父さん、わたし○○さんと結婚するけれど、結婚式はしないからね、わかってね」と言われたら、「おー、それもいいなぁ-」何て気の利いたことは言えず、妻に、ぐちぐちとつぶやき続けるのではなかろうか、と思うのだった。

 

稚内教会でも結婚式をお引き受けしている。

 

もちろん、ノンクリスチャンでも大丈夫。再婚であっても全く問題なし。お二人だけの挙式が去年はあったなぁ。あっ、遠い昔に結婚され、式を挙げたいと思いつつうん十年経ったご夫妻なんかに、出会ってみたいなぁと感じる。

 

どのような事情があろうとも、出会いが与えられ、ご奉仕させて頂けるならば、最北の町にある教会として、また、牧師としても嬉しいことだと思う。会員の皆さんと共にベストを尽くしますので、どうぞ、ご相談下さいませ。はい、これは宣伝・コマーシャルであります(大笑)。

 

忘れることができない心に残る結婚式が、また一つ増えた。稚内の夏に感謝。end

 

 

 

2013年

8月

01日

2013年08月01日(木) №64 『 増補改訂版 牧師室便り NO.16号(7月28日発行分) 』

以下、月に一度の「牧師室便り 7月号」の加筆版です。ただし、元々の内容を記したのが、入院前の週のことであり、補筆するのもぎこちなくなりそう。ご承知くださいませ。

 

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お尻美人? それとも美尻男子?になるために、わたくし、このお便りの発行日(7月28日)には札幌の病院に入院しております。

 

入院は7月23日(火)からですので、執筆はさらにその前。何だか時差を感じられたらそれが理由です。ごめんなさい。

 

昨年のゴールデンウィーク、札幌北光教会で毎年おこなわれる大きな教会会議に参加したあの時、あまりの痛みに、わたしは宿泊先のベッドで泣きうめき、とうとう気を失ってしまった。

 

その後もいろいろあったけれど、ようやく時が満ち、痔の中でも一番やっかいな「痔ろう」の【根治手術】をということになった。去年も手術をしたと思っていたのだが、あれはどうも、膿をだすための単なる切開だったのですなぁ。やれやれ。

 

正直言えば「恐怖あり」が本当のところ。

 

手術もそうだが、去年は術後の麻酔の悪さに相当参ったのだ。牧師館で、布団から起き上がることが出来ない日が数日続いた。麻酔って恐ろしいものなのだ、と学習したものである。

 

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6月の末から7月の初めにかけて、14年前に天に帰って行った姉の二人の息子のうち、28歳になる長男の〈宗太君〉が横浜より来稚することになった。すこしワクワクしながら、JRスーパー宗谷を幌延駅までわたしも出向き、そこからドライブを始めた。

 

まず向かったのは天塩。天塩の道の駅では、名物の“シジミラーメン”をわたしは注文。甥っ子の宗太君は、北寄貝のカレー。はて、どんなカレーかと思って見ていたらフライになった北寄貝が乗っていて何とも旨そうだ。次の機会にはわたしもあれをゲットしなければと頭にインプットした。

 

その後は日本海沿岸の名物・オロロン街道を北上。風車の壮大な列や利尻富士を見ながら稚内に向かった。時間の都合もあり、サロベツ原野は今回はお預け。偶然にも同じNikonの初心者向け一眼レフを手にしていた宗太君と、シャッターを交互に押し合いながらの旅となった。

 

稚内に入ってからは、まず最初にノシャップ岬を見学。有名な魚屋さんであり、お土産屋さんの“あきかわや”さんに入ると、礼文から届いたという“シマエビ”が目に入る。夕飯の刺身にどうかと思い、妻に電話すると、「買ってきて、それがあれば、わたし、買物に行かんですむケン」とのこと。

 

そうか、お土産だけでなく、手頃な魚も場合によってはここで買うことが出来るということを学習した。さらに稚内を一望できる稚内公園に案内。ついでに教会のお墓にも行って様子を確かめることもできた。

 

日曜日をはさんでいたので、というか、嬉しいことに甥っ子の宗太君は、日曜日には礼拝に出て、「げんちゃんの説教も聞いてみたい」と涙がぽろりとなりそうなことを言ってくれての旅でもあったのだった。

 

幼稚園の運動会も重なっていたので、運動会の会場にも案内したりと盛りだくさんの日曜日は楽しかった。そして、日曜日の夕方は、利尻島に二人で渡ったのだった。

 

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利尻に出向いての一番の驚き。それはフェリーに乗り合わせていた方たちの年齢だった。お仕事以外の旅人と思われる8割位の方がほぼ確実に70歳前後に見えた。ご夫婦とおぼしきカップルも多く居られたし、幼馴染みとかにも見える方々も大勢いらした。

 

一度は北海道へ。しかも、札幌辺りではなく、という気持ちの表れだろう。

 

知人の紹介で泊まったペンションは見事なまでに肉料理は一つもなかった。世に多い、「もう、これ以上はお腹に入りません。満腹・降参です」という所に至る2歩手前くらいのお料理のおもてなし。それはある意味見事だった。朝食も、ここ10年でこれ以上は考えられない程の見事な按配に感服した。グリーンウインドさんと言います、そちらは。

 

翌日はレンタカーを借りて利尻を一周することにした。

 

特に、利尻登山の入口付近から湧き出る(他からもあるとは思いますが)「甘露泉水(かんろせんすい)」の美味しさには感動。水道水とフランスの某ブランド水の違いがわからないことはあっても、この「甘露泉水」だけは、他のどの水とも違いがわかる、ような気がした。それ程うまい水だ。

 

利尻に来て思ったことのもう一つは、想像以上に利尻富士は大きな山だったということ。しかも、面白いことに雲の掛かり方によって、本当に島の北と南、或いは、西と東なのか、天気がまったく違う。驚いた。いつも、稚内の“坂の下”や“夕陽丘パーキング”から見える利尻は、ある意味、利尻の一面に過ぎないのだと気付かされた。

 

その後、昆布バザーで思いがけずお世話になっているT田姉のご親戚の漁師さんにもご挨拶できたことも本当に嬉しかった。

 

1年前に、漁を継ぐと言って張りきっておられた息子さんを、コンブ漁で天に送ったご夫妻と妹さん。

 

お仏壇がわたしの視界の後方に見える中、穏やかにあれこれとお話し下さった。このブログの“気ままフォト”にその時の一枚が収められています。よろしければご確認を。

 

厳しい冬でなく(レンタカーのお店のお姉さんが冬の厳しさを真顔で口にしていました)一番よい季節だったにしても、島全体を癒しの空気が包んでくれていたのを確かに感じた。利尻の方々は「利尻がいちばん」と確信しているのも何か分かる気がしたのだった。

 

甥との旅の最終日(火曜日でした)は宗谷岬・宗谷丘陵を妻とともに散策。その頃ふとわたしは思ったのだった。

 

「あらっらぁ、いつの間にか、稚内のだいたいの観光地が分かるようになったなぁ」と。少し成長した気持ちになった。

 

稚内市が開講している「稚内学」にも教会の皆さんの了解を頂き参加させて頂いて来たことも、ジワーッと効いていて、単なる知識だけでなく何かしらの厚みが出てきたような気がして嬉しくなったのだった。

 

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話は変わるが、勝間和代さんという経済関連のジャーナリスのブログを、或る頃からわたしは読んでいる。何も自慢するような事ではないが、生きる世界の違う彼女のブログは、わたしのような人間には世間を知る窓でもある。

 

ごく稀にだけれど、ほーっ、なるほどねと惹かれる内容を届けてくれる。

 

最近のわたしにとってのヒットは【「急がない」健康法】だった。「ゆっくり動く」「余裕を持つ」。その延長線で、よく寝る、ゆっくり食事、ゆっくり入る風呂。さらに「移動時間には、すべて10~20分の余裕をみる。すると風景が変わる」とのこと。

 

ちょこっと実践してみたのだが、たいせつなヒントをもらえたなあと感じる。いつも、「ほーら、また約束の時間を過ぎた」と妻に言われることが多いわたしである。この先、どれだけ実践できるかは分からないが、チェンジの必要を感じているし、変わる意味はありだと思う。

 

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文集『あしあと』を発刊してから2ヶ月になる。発行後、ホームページにもその一部を少しずつ公開している。プライバシーに配慮しつつ教会外部の方にお読み頂いて、教会の内側の空気が、外にもゆるやかーに伝わっているようだ。

 

教会の皆さんや周囲の方々が綴ってくださったものが、わたしの手を離れて、さまざまな形で福音を発信してくれている。

 

時に電話、そして、お便りやメールで「良かった」という思いが届く。その受け止め方は、わたしの説教と同じで、既に、教会の内側に居るわたしたちには想像できない、読み手の文脈の中で力を発揮していることが素晴らしいなぁと思う。感謝だ。

 

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先頃、韓国から自転車旅行でおいでになった24歳の大学生との礼拝堂の一番前の席に座っての語らい。短時間だったが大いに教えられたり、驚いたりの時間となった。

彼は何かの話の流れから、「韓国は日本よりも貧しい後進国です」とお話されたのだった。

 

最近の韓国の工業製品、例えば、自動車にせよ、携帯電話にしても韓国製は相当な力を発揮しているので、もう、韓国は日本と並んでいるか、ある分野では先に進んでいるとわたしは思っていたので意外だった。

 

近い将来就職を控えている彼に、「大卒業後の給料は幾ら位あればいいの」と質問してみた。すると彼は「15万円あれば」との答えたのだった。どうだろう。稚内をはじめとする地方経済の実状からすると15万円の初任給は無い話ではない。しかし、東京辺りで4年生大学で学ばれた方たちは・・・ちょっと違うのではないか。

 

他にも男性に義務付けられている2年間の兵役制度。同胞でも「今は敵です」と断言された北朝鮮のこと。そして、かなり行き過ぎているという学歴社会のことなど。どれも聞いていて飽きないどころか、もっといろいろと教えて欲しいと思う中身が濃い出会いだった。

 

もちろん、彼独自の、よい意味での韓国の社会でのマイナーな立場からの視点があることは承知しているけれど、それでも出会わなければ分からない事ばかりで、とにかく貴重な時間だった。

 

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7月14日(日)の礼拝前、「朝6時に温度計を見たら、もう20℃になってたねぇー、暑いよねぇ」とお話ししているご婦人の声が聞こえた。

 

福岡に居た頃は、いや、それ以外の地域でもだが、同じ時刻でも10℃高い30℃の日がよくあったはず。20℃は天国だったはずである。

 

ところが、どうも最近は、昼の25℃でもかなり暑いと感じてしまう。そこでも、稚内の人になって来たわたしを自覚したのだった。30度越えは想像しにくい世界である。

 

昆布バザーを通じて、漁師さんの仕事ぶりに触れられることは新鮮な経験となりつつあることを思う。その奥深さや厳しさはまだまだ想像の域だが、魅せられる。旗が上がるのを静かに待つ姿勢もすごいなと思う。

 

「人生、学ぶに終わりなし」。それが最近の実感である。end

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1)写真館に最近ものをすこし ^^♪16.5.30

 

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