2014年
8月
28日
木
今日から夏休みを頂く。もう夏休みか。朝、漁師さんを訪ねてしまったけれど。
今年の夏休みは久しぶりに友人たちと会う予定もある。中学の同期生とも思いがけず再会することになった。
「げんちゃん、変わっちょらんのぅ」(おおいた弁)なのか、「おれ達も、やっぱ年取ったなぁ」なのか。
中学の頃、話をしたこともない人たちも幾人か居るので、いったい、どんな展開になるか、本当に楽しみだ。
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そんなことと少し関連もあるかも知れない話題を出発前に少し。
いつものように恥ずかしながらなのだが、実はわたし、ほぼ半年以上体重計に乗っていなかった。
ちゃんと体重を測った記憶があるのは、去年の10月中旬。北海道の牧師たちの年に一度の研修会の風呂場でのことだったと思う。
とすると、一年前ではないか。
妻は妻で、体重はどうでも良いと思っていたらしい。我が家の体重計。我が家の体重計、リビングルームの片隅でホコリをかぶること数ヶ月。
やがて妻はそーっと移動し、わたしには体重計がどこにあるのかも分からなくなっていた。
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今年の2月頃か。
牧師館から教会に向かうゆるやかな圧雪路で、わたしは思いっきりスッ転んだ。
バス通り越しに「ボクシセンセ-、大丈夫ですかぁー!」の声を幼稚園のスタッフから掛けられた。
「平気平気、大丈夫」
そう言って立ち上がったわたし。何のもんだいもないハズだった。
それのに、数日すると、膝が痛み始めた。そう、「サロメチール以上、整形外科未満」というようなタイトルでBlogを記したと思う。実は今でも痛む。
その頃から、歩くのがおっくうになり、厳冬期に散歩する根性なんてわたしにはこれっぽっちも無いので、家の中での運動も止めてしまっていた。
春になり夏を迎えて、少しは散歩することもあったけれど、運動のレベルにはならない。
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夏前。
衣替えで引っぱり出したスーツ。ズボンのホックを留め、ファスナーを引き上げるのに苦労した。背広のズボンがGパンのような感じでお尻に食い込んでくるじゃないか。
あまりにパンパン、我ながら可笑しくなった。
ところがである、確か一ヶ月と少し位前、何がそうさせたのかハッキリとはわからないが、家の中で出来る、有酸素運動であるステップ運動を再開することにした。
一日30分程、ひくーい階段程度の高さの足踏みをする。ただそれだけなのだが、それなりに汗もかく。
効き目があるといことは、以前も少し経験していた。
一ヶ月程、せっせと続けてみた。福岡大学の某先生が推奨する運動なのだ。
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2週ほど前、礼拝用のスーツのズボンをはいてみたら、何だか少しユルい。平日はjeansがほとんどなので、スーツは一週に一度なのだ。
さらにこの間の日曜日。ズボンがもう少しユルく感じた。
それだけじゃない。jeansのフィット感も少し変わってきた。
さらに更に、朝、目覚める前になんとなーく腹を撫でてみると、何だか、腹の盛り上がりが小さく感じるではないか。
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一昨日。
体重計を引っぱり出してもらった。
わたしは「ガッカリするのはイヤだなぁ」、という気持ちが強かったけれど、でもまぁ、自己管理のためにも、体重計に乗ることにした。
結果は、うーんと唸った。
ほんと、オレこんなに太っていたのか、という程のデジタル表示だった。既に大台を突破していた。プロスポーツ選手ならこれでちょうど良いくらいの重さである。
4年前の一番スリムというか病的に痩せてしまった時期に較べると17㎏も重いじゃないかよ。
いやぁ、このデブちんぶりは、吾ながら困ったものだと思う。
50を過ぎて、ガリガリしているよりも、少しふっくらしている方がよいこともあるとは思うけれど、これでは、イカンだろうと思うレベルで、日々を過ごしていたわけだ。
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関西在住の一つ年下の友人とのやり取りが一ヶ月前にあった。
彼はメタボ症候群を自覚し、食事は最初にキャベツを山盛り食べることにしている、と便りに記していた。夜9時以降は食べないそうだ。さらに、朝晩体重計に乗ること。適度な運動をするそうだ。
ただし、きつきつな生活では長続きしないので、出張中はその規則を外れて、ドンドン食べて飲むそうだ。
彼は以前、逆立ちをよくしていた男だったという。
ところが、体重が重くて手首に負担がかかり、しまいには手首を痛めてしまったそうだ。
それを読んだ時、わたしは妻に紹介して笑った。大笑いした。
が、笑い事じゃ無いよな。他人事ではないな、と思う。
だって、お米5㎏どころか、10㎏分くらい、ご苦労なことに抱えてかおぶってか、生きていたのだから。あんな重さのお米をいつも持って歩いたら、そりゃ腰も痛くなるし、体のきれも悪いにきまっている。
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この二週間、上に記した、牧師館と教会を結ぶ、転倒してしまった坂道にさしかかると、嘘いつわり無く、何か体が少し身軽に感じるのだ。
小走りしても、腹の揺れ方がちいさいというのか。
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肝機能検査を避けよう、避けようとする呑み助が世の中には居る。
あるいは血液検査前だけ断酒する方たちも数多く見て来た。
しょうがないよな、全くー、なんて思っていたけれど、わたしの「体重計を避けたい」という心と、ほとんど同じかも知れない。
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一昨日は、同じ年だけど牧師としては大先輩の方から、「実はさぁ、オレ、少し前に倒れたんだよ。軽い脳内出血をしていたらしく起き上がれなくて、急患で診てもらったら、集中治療室に運ばれてね。当座の処置で助かったけれど、これからは、塩分一日6㌘と言われてなぁ。これはさすがにきつい」と聞いた。
きのうは昨日で、「言さん、せっかく約束していた食事会、過労と先週の極暑の中での外回りなどが続き、体調が悪くて行けそうにない。血尿が出ている。申し訳ない」とこれまた、同じ年の友人からメールが入った。
いやー、やっぱり我々の年齢って、そろそろ様々な危険信号が出始めるのだなと気付かされる。
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今のわたしにで出来る健康管理。その第一歩は、体重計に乗ることかな。
ある先輩の奥さまが、稚内教会の昆布を注文してくれた。「両親が喜ぶんです」と言いながら。
そしてその奥さまから、驚きの言葉を聞いた。
「わたしの父、こんぶ水も飲んでいるからかしら、150歳まで生きるって言うんです。本当に元気でバリバリ仕事もするし・・・」と言うのだ。
初めは「馬鹿なことをいうお父ちゃん」と思った。
けれども、もしも、本当に150歳まで元気だったら(あと70年あるはず)、それって本当に楽しいことだな、と思った。
程ほどで神さまの元へ、と思うことがある。
しかし、150歳を目指しているお父さんの話を聞いて思った。元気で長生きは、まだ見ぬ時代に触れられる、見とどけられる、ということになる。
少し、考えて見ようかなあ。元気に長生きを。
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今から夏休み。
キリスト教の世界ではない所で生きている仲間たちや人生の先輩方とも会えそうなので、とても楽しみだ。
仲間たちの言葉に触れ、顔を見て、元気をもらいたいと思う。あるいは、何かを少しは届けられるかな。
おいしいものの誘惑もほぼ確実にありそう。
ここは、何とか腹8部目に抑えて頑張らなきゃいけない、と思う。end
2014年
8月
25日
月
稚内教会には関係者を含めて酪農家が数家族居られる。牛飼いの仕事をされている方たち。だいたい、朝5時前後には起き出して搾乳、糞の始末、餌やりなどの一連のお仕事が始まるようだ。
たぶん、9時半か10時くらい迄は朝の仕事が続くはず。
日曜日も祝日も関係なく、その仕事は1年365日続く。お休みするとしたら、ヘルパーをお願いするか、余程頼りになる親族が身近に居るかでなければ、家を離れることは出来ない。
つまり、日曜日の礼拝に出席するには、そのやり繰りを何とかするか、余程、教会が近くなければ無理になる。
きょうここでご紹介する歌登の酪農家の〇〇家の芳子さん。嫁いできて20年間は夫婦で家を空けることはなかったそうだ。
農協の抽選で当たった、かつての後楽園球場の巨人戦の開幕試合まで、一度も夫婦揃ってやすむことはなかったそうだ。
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わたしは、その〇〇家の家庭集会に、冬場をのぞく期間と牧草ロールの繁忙期を除いて、一ヶ月に一度出掛けることがたのしい。
もともと、まずもって、車を運転していることだけで心がうきうきしてくるわたしにとっては、歌登の家庭集会の行き帰りの道は最高の気分転換の時間となる。
地元の方たちには説明するまでもないことだが、歌登まではオホーツク海沿いのほぼ一本道を東進して、まずは枝幸を目指す。
そこまで110㎞。どんなに車が少ない道でも、高速道路というわけではないし、安全運転を心掛けると、2時間弱は掛かるのが普通だ。
枝幸は、ひらがなにすると「えさし」。
この地名をNHKのアナウンサーが放送で呼ぶときは、ルールがあるのだろうか、「北の枝幸」と言う。函館に近いところに、もうひとつ「江差」があるからだ。確か、こちらは「南の江差」。
「北の枝幸」は蟹の漁港として知られる。南の「江差」も明治末期頃まではニシン漁で知られたと聞いている。
歌登の〇〇田家は、枝幸から内陸に向けて約20㎞。時間にして20数分は掛かるところにある。
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歌登へ出掛ける時には、幾つかの楽しみがある。
最近は、半ば趣味のようになってきたカメラも必ず助手席に置く。晴れの時ばかりではないが、いつ、思いも寄らない空や雲、そして、樹木や動物が目にとまるかはわからない。
勿論、お天気が程ほどに良ければ自ずと心が弾みだす。
稚内近辺からも澄み切った空気の時には見えるのだが、帆立貝で有名な猿払(さるふつ)辺りからサハリンの島影がハッキリと見える日もある。
40数㎞の先にロシアが見えるのは、何とも不思議な気分だ。
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秋の訪れの頃、枝幸町から歌登までの20㎞程の一本道は夏とは違う白樺並木彩りが見事だ。
雪の積もりはじめの頃も嬉しくなるが、昨秋に、宗谷岬でスリップ事故を起こして車も大破して以来、「雪道の遠出はやめて」と妻から言われている。
家庭集会が終わり、ホッとしての帰り道は、季節が良ければ浜頓別のクッチャロ湖にも行きたくなる。羽を休めている数え切れないほどたくさんの白鳥たちのみならず樹木と湖畔の絶妙なコントラストに心が癒される。
クッチャロ湖近くの宿に一泊して、深夜、夜空をながめると、本当に星が空に散りばめられて降り落ちて来るようだ、と聞いている。
だから、テントを張って湖畔で過ごす人たちのスポットとしても知られている。
いずれにしても、カメラを手にして、どこかに車を止めては撮影なんてことをしていると、時計の針があっという間に進んでいくのだ。
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普段は、10時前に牧師館を出て、とにかくお昼までに枝幸町の中心にある道北の百貨店西條さんの駐車場到着を目指す。
駐車場に滑り込むと、まずはお弁当を開いて一休みだ。まっ、それまでもトイレ休憩を含めて一休みはしているのだけど、とにかく、お昼休みは西條さんに決めている。
NHKラジオのお昼のニュースを聞きながらの弁当と思うのだが、オホーツク沿岸は電波事情が今ひとつの所が多く、電波探しに少し時間が掛かることも多い。
食後は、西條さんの中の本屋さんに立ち寄って、お気に入りの本を探すことも楽しい。そして、手洗いによってから午後一時、気合いを入れて再び出発と相成る。
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甘党のわたしのもう一つの楽しみがある。
かつて、浜頓別や中頓別にご主人の転勤の関係で暮らして居たことのあるT姉が、ある日、教会の皆さんにお土産としてもって来てくれた「松の実最中」がわたしを呼ぶのだ。
浜頓別の商店街のまん真ん中にある「松屋さん」。最近は稚内の老舗・相沢食料百貨店さんの日本各地の銘菓を並べる特売の時にお声が掛かるようで、ここ2回ばかりチラシに名前があるし、そうなると、わたしは、どうしても相沢さんに出掛けてしまうことになる。
「松の実最中」。
あらためて考えて見ると和菓子にしては珍しいと思うのだが、重みすら感じる程にずっしり詰まった本格的なあんこを堪能できる。
一個150円。安すぎではないか。
歳を取ってきたからか、買い物するときに、あれこれとお店の人に話しかけたくなることが多いのだが、先だっては、いくら呼んでもお店の人が誰も出て来なかった。
ようやく息を弾ませたお父さんが顔を見せると、「今、仕込みでちょっと手を離せないから」と言われた。
なんだか嬉しくなった。
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8月19日(火)の〇〇家での家庭集会は、その道中からいつもとだいぶ違う一日となった。
8月10日(日)の礼拝にお出でになっていた、A典子さんを、浜頓別の斜内小学校の旧・教頭住宅からお乗せしたからだ。
なんとその家はT姉ご一家が浜頓別で暮らしていた時に暮らしていた家だった。典子さんは、大阪府富田林市の教会の熱心な会員さんなのだが、素晴らしい教会音楽家であることを、礼拝にお出でになったあとに知った。
2004年に米国ボストンのバークリー音楽学院を卒業。その後、有給の黒人教会の専属ピアニスト等をして活躍した方だったのだ。
帰国後12年を経て、現在は、考えるところがあるらしく、北海道内各地で体験移住しながら音楽活動をして居られる。
その活動の様子は、以下をクリックするとわかる。
http://asaminoriko.jimdo.com/
また、道内での、体験移住の日々は、以下にBlogがある。
http://hokaidoiju.jugem.jp/
〇〇家での証し、網走刑務所を吉本新喜劇で大活躍された故・岡八郎さんの娘さんのゴスペルシンガー・市岡裕子さんと慰問し伴奏されたそうだ。
市岡さんの証しも含め獄中の聴衆も刑務官も涙涙だったとのこと。わたしたちも聴かせて頂いてじーーん、と来た。
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この日、〇〇家には、Aさんから小学生の頃にピアノを習っていたお弟子さんの麻依さんという、関西の大学の数学研究の専門家(博士課程後期在学、同時に、特別研究員としてお給料ももらっていると言う)のお嬢さんもご一緒してくれた。
昼食を三人で食べるところから、楽しくあれこれとお話が盛り上がったのだが、この方のまた、素晴らしい志をお持ちで驚いた。
将来は、ブルガリアかチェコという、ヨーロッパでの経済的にはあまり豊かではないけれど、真実な豊かさが秘められている国での生活を目指しているのだそうだ。
だが、その前に、季候が東ヨーロッパに近い北海道で、お金はそんなになくてもいいから、ヨーロッパでの暮らしをイメージしながら準備期間として過ごし、それから先は、ブルガリアを目指すというのだ。
お付き合いしている彼氏もちゃんと居られるそうだが、自分がたいせつにしたいと考える暮らしの在り方がこれからの人生でも優先だ、という意味の事を彼女はハッキリと口にした。
素晴らしい!
でも、そんな彼女も、中学生の頃は、安室奈美恵さんに憧れて、ダンスと歌のスクールに熱心に通っていたというのだから、人生わからない。
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さてさて、歌登の〇〇家での家庭集会である。
典子さんは、お願いしていた奏楽のためのシンセサイザーとスタンドスピーカーを、到着すると直ぐにトランクから運び出してセット。
いつもはヒムプレーヤー(教会から持って来る讃美歌自動伴奏機)なのだが、この日は、生の演奏付きの讃美歌を堪能しながらの豪華な家庭集会となった。
アメイジンググレイスも歌ったのだけど、黒人教会風の伴奏もして下さったりして、心躍る時間となった。典子さんにとっても一般家庭の居間での演奏は初めての経験だったそうだ。
〇〇さんご夫妻と、ご主人のお母さま92歳のすゑのさんを交え、魂に響く奏楽に聞き惚れ、一同、こころ洗われる2時間を過ごした。
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ウォーミングアップのアイスブレークとして、「最近嬉しかったことはなんでしょう。1分間で…」の分かち合いをしたのだが、これも楽しかった。
酪農家のご主人の重信さんは数日前の午前3時頃の乳牛の安産についてお話下さった。酪農家にとっては、何が起こるか分からない牛の出産はかなりの緊張の場面だということを初めて知った。いのちに関わることで、これまで、悲喜こもごもの時が積み重ねられてきた様子だ。
特に、〇〇家は、考えに考え抜いて決められたことだと聞いているし、教会の文集でも公にしていることだが、来春には、跡継ぎが居られないことや健康上の不安もあって酪農を廃業されることになっている。
そのことを思うと、あと何回、牛たちのお産に立ち会うことになるのか、というようなことも含めて感慨深い、濃密な時間だったのだろう。
奥さまの芳子さんは、わたしの「最近嬉しかったこと・・・」への言葉として「夏、お客さまもいらしていろいろあったけれど、やっぱりきょうのこの時間です。38年前に嫁いできてから始まった家庭集会ですが、こんな嬉しい日は…」と声を詰まらせた。
そしてまた、家庭集会のおわりの祈りでも、何度も感謝の言葉を繰り返された。
わたしは、「最近、昔の友人たちとの交流があるのだが、そこで気付いたことがある。自分は牧師としてふさわしい人間だから牧師なのではなく、誰よりもみ言葉を、聖書を必要とする人間なんだとあらためて思う。だからこそ、神さまは聖書を一所懸命に読む仕事に就かせて下さった」と語った。
実際は一分に納まらない話になってしまったが。
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帰り道。
浜頓別の外れ・斜内の旧教頭住宅を借りておられる典子さんとそこに滞在中の麻依さんが、「先生から、松の実最中をいただいた御礼に、せめて、お茶の一杯でも」と声をかけて下さったので、一時間程、くつろいだ時間を過ごすことが出来た。
何か、とても真面目なことを、とても楽しくお話ししたと思うのだが、中身は忘れてしまった。
それにしても不思議な出会いを神さまは準備して下さったものだと思う。
典子さん。
滞在中の浜頓別の町でクリスチャンの方と一人も出会えなかったそうだ。
けれど、滞在中の住宅が、稚内教会のTさんがかつて暮らして居た住宅だったことをTさんから知らされたことは、神さまのお計らい以外には考えられないと、お話になっていた。
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最近、わたしは日々の暮らしの中で薄ボンヤリと思うことがある。あるいは予感していることとも言えるかも知れない。
それは、あわてないでじっくりと構えていると、何かが起こるということだ。
願っている以上のことが、思いも寄らない形で備えられている。
そんな日々が、少しずつ開け始めているのを感じる暮らしが嬉しい。
だから、たのしい。
教会の外でのことだが、お二人の方から、ほぼ似たような言葉を掛けられた。「先生、元気ですね」「森さん、3年前に初めて会ったときより、ふっくらして顔色が良いですね」と。
それも聞いておかしくなり妻にも報告した。
悩みもあるし、解決しないことを抱えているのは変わらないのだが。そんな空気があるのかしら。
日毎の何気ない日常こそが一番貴いということを心に刻みながら、今日も、明日も生きていきたいものだと思う。end
2014年
8月
19日
火
※どうってことのないお話です。それが長く続きます。お疲れの方、お忙しい方はいずれまたの日にどうぞ。
きのうの日曜日の礼拝。
子ども説教をしたときに、「柳沢君」という友人のことに触れた。
彼はこの夏、北海道縦断のオートバイのご夫妻での二人乗りによるツーリングを計画していた所、別の友人から、「げんが稚内で暮らして居る」と知って訪ねて来てくれたのだった。
柳沢君は親友というような付き合いではない。この10年程の間も互いに音信不通のままだった。
何も大喧嘩したわけでもないけれど、さりとて、どうしても連絡をして何かを相談しなきゃ、ということもない。そういう仲なのだ。
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ところがである。
今あらためて振り返って見ると、柳沢君って、人生の重要な場面にすっと姿をあらわして、たいせつな言葉をポロッと語ってくれて、重要な示唆を与えてくれる人だったのだとハッキリと気が付いた。
遅ればせながらであるが。
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柳沢君ご夫妻と稚内で一緒に過ごした数時間で、わたしが彼に話しかけた言葉にこんなものがある。
「柳沢、お前は遊びの名人だからなぁ」
正に、わたしからすると柳沢君とはそういう男なのだ。
「日本百名山」の登頂を楽しみ、今回のツーリングのように、HONDAのエアバッグ付きの大型バイクで日本の隅々の名所旅行を楽しむ日常を送っている(ようにみえる)。
大金持ちでということではない。
彼も立派なサラリーマン。ある大手電鉄グループの傘下にあるスーパーの中枢で仕事をし続けている、会社人間なのだ。
しかし、それなのに、会社に命をとられる、というような生き方は絶対にしない。
今回も「定年を迎えたら、もう、仕事はいいよ。片道1時間半、新宿、渋谷を通っての通勤は十分」と言い切った。
今回の旅も、会社の夏休みをめいっぱい使い切る10日間弱の日程のようだった。
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柳沢君は、一見すると、わたしとは生きる世界が違っているところに居るように見える。
わたしはと言えば、休みなのか休みじゃないのかわからないような時間の過ごし方しかできず、できれば、あと20年位、つまり70歳過ぎまでは牧師として働きたい、なんて考えている。
彼はわたしみたいな男とは全くタイプが違う人なのだ。
けれども、わたしはこう確信する。
彼には、堅苦しい人生哲学なんて言葉はなくても、聖書を読まなくても、しっかりとした人生観があるのだ、と。
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ところで、牧師をしていて、あるいは、人として生きていてというべきか。
年に何回かは必ず思い出すシーンが二つある。
場所を選びながらだけど、そのことを人前で話すことがある。近い所では昨日の稚内教会での礼拝のこども説教。そして、稚内北星学園大学での講義がそうだ。
そのシーンとは、わたしの54年の人生の中で、非常に重要な、ターニングポイントとなっている場面なのだ(と今確信する)。
そのいずれの場面にも柳沢君は居た。そして、何かを告げてくれた。
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若い時の方から振り返って見よう。
一つはインドのカルカッタに出かける切っ掛けをくれたのが柳沢君だった。
現在はカルカッタとは呼ばずコルコタと呼ぶようだけど、わたしは二十一の時に、大きなリュックサックに寝袋を縛り付けて三週ほどの旅に出た。
ある日、東京都府中市のとある町の、第二かつら荘102号の六畳一間のアパートに、柳沢君が飛び込んできた。
「げんちゃん、インドに行って来なよ、カルカッタ。とにかく面白いからさぁ。そして、安いんだ。あっ、ニューヨークも面白いよ。刺激に満ちている。でも、高いんだよなぁ」
そんなことを、部屋に入ってくるなり直ぐに始めたような気がする。
既にその時、柳沢君は、インドにもニューヨークにも出掛けて居た、ということなのだろうと思う。
二十歳の頃の感性というのは、今考えて見ると、わたしだって純粋で豊かだった。
いったい柳沢君はそういう経験をどうして出来たのか知らないけれど、とても大事な旅の切っ掛けをくれたのだった。
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私は彼の言葉を真に受けた。
そうか、十数万円の旅費と一日千円程の滞在費で、二週間でも、三週間でも海外旅行に出られるなんて。そんな所は他にないと信じたわたしは、それから、何ヶ月かしてインドに旅立った。
「HIS」と言えば、今はそれなりに何の知れた旅行会社だと思う。スカイマークやエアドウを生み出した、澤田さんという人が30年近く前に始めた会社だ。
そのHIS。
わたしが二十歳の頃は、格安航空券を扱うちいさなショボい会社で、新宿駅前の雑居ビルに入っていた。わたしはインドへのチケットをそこに求めに行ったものだ。インド往復が当時はタイ経由で13万円だった。タイからはエジプト航空が使われていた。
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カルカッタ、プーリー、ベナレス(バラナシ)、アグラ、デリーと、デカい国インドの、本当に限られた地域だけど、今考えれば得たいの知れない人々との出会いを繰り返しながら、わたしは歩き、列車に揺られ、バスに飛び乗り、恐る恐る闇市に足を踏み入れたりした。
インドの人々にとっての聖なる大河ガンジス川のほとりで、火葬がなされ、遺体が流れ来るすぐそばで、心からの感謝を込めて沐浴する人々の姿は衝撃だった。
どこの町でも堂々と道端に座り込んでチャイを売る幼い子どもたち、ムラサキ色に焼けたアグラの宮殿裏の空、自転車のインド人です、という顔のおじさんたちのデリーでの群れ、昼間からゴロゴロとして過ごすオッサン、サリーの美しさ等々。
それらに触れる切っ掛けをくれたのが、柳沢君だった。
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もう一つ、柳沢君が絡む、重要な場面がある。
それは、わたしが神学生としての最後の説教の日のことだ。母教会の銀座教会での夕礼拝の説教を担当させて頂いた時のことだ。
幾人かの友人たちが、「げんが、いよいよ神学校なる所を卒業して教会の仕事に就くらしい。礼拝と言うヤツに出て、そのあと、銀座の町に繰り出して夕飯を食おうじゃないか」という日。
早めに到着した岡田君は、その時の礼拝説教のみ言葉が『フィリピの信徒への手紙』からだ、ということを『週報』を見て気がついて、こう叫んだ。
「すっげぇなぁー!キリストって、“フィリピン”にも行ったのかよー」と。
地中海沿岸の古代都市「フィリピ」とアジアの国「フィリピン」。
確かに似ている。
聖書にほぼ初めて触れるような男たちが礼拝に来るのだから、そういう言葉が出ても不思議ではない。
そんな珍道中ならぬ、珍礼拝が始まろうとしていた。
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で、柳沢君である。
その日、たぶん、わたしは神妙な顔をしながら、銀座教会の2階にある、小礼拝堂の前方の椅子に座っていたはずだ。司会も自分がしたのかも知れない。
その時、わたしは確か三十二歳位。就職をして社会で働き、紆余曲折、病で苦しみ、多くの挫折をしながら学び直し、いよいよ伝道者としてスタートというところだった。
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そこには柳沢君も居た。
「もりちゃん、インドに行って来なよ」という、今振り返って見れば、最先端の遊び談義を交わしていた我らだ。
この時の彼のとった行動は何も不思議ではない。むしろ、実に全うだ。
柳沢君。
わたしの顔を見るなり、笑うのをこらえきれずというのか、前方に座っているわたしを指さしながら、笑いだした。それも、体を転がせるようにして、白い歯を見せながら、しばらくの間笑い転げていた。
わたしがまだひと言も語らぬうちに。説教を聴くのもおかしくて仕方なかったかも知れない。
****************
今わたしは思うのだ。
ほんとうに、指さされて笑われるような男がオレなんだよなぁと。
笑われてよかったと。
先週のブログで触れた中学校の時の、遠い、友人である小川君やその周囲の人たちも思うだろう。
サッカーばかりやっていて、勉強はいつも二の次三の次だったもりげん君が牧師なの!と。
恥ずかしいことを山ほど積み重ねて来た自分が居る。立派な、牧師らしい人ってもっと他に居そうだよ、と思う。心底思う。
****************
そうなると、聖書っていうヤツは、本当にリアリティーを持って迫ってくることに気がつく。
ペトロにしても、パウロにしても、彼らが存在しなければ、キリスト教も教会もなかったことは間違いない。
しかし、彼らほどひどい輩(やから)はいないではないか、と思うようなことが、バッチリと記録されているのが聖書。
神さま、そして、イエスさまは本当に不思議なことをなさるなぁ、と思うのだ。
この世の常識ではあり得ない道備えをされるお方だとツクヅク思う。
****************
柳沢君はもう一つ、わが人生において、大切な助け船を出してくれた男だった。
学生時代、今考えて見ても、本当に割のよいアルバイトを紹介してくれたのが彼だった。
それはヤバい仕事なんかではない。おとなの世界、職人の世界を知る、素晴らしい職場だった。
日本の中でも有数の皇居の脇にあるPホテルの鍋洗いのアルバイトだった。
30年前でも、朝7時半位から約12時間の拘束はあったけれど、三食付きで一万円以上の高収入のアルバイトが存在したのだった。そのアルバイトにありつけたおかげで、大型のバイクを購入したりしたし、インドにも出かけた。
それもまた、柳沢君のおかげだ。
その世界では鍋洗いの仕事を「鍋屋」と呼んでいた。お客さまが使ったお皿やフォーク、ナイフ、コップを洗うのはおばちゃんたち。
「鍋屋」は職人さんが使ったものだけをひたすら洗う。コックさんの最初の修行、みたいなものだ。
****************
神さまは、要所要所に、柳沢君を送り込んでくるらしい。
違う世界、違う価値観を持っているかに見える彼をだ。
今回も柳沢君はポツリとつぶやいた。
「お金はさ、食べるだけあればそれでいいよ」と。
****************
少し古いけれど、わたしは小椋佳が作詞作曲し、中村雅俊が歌った「俺たちの旅」が大好きだ。
柳沢君の顔を思うと歌いたくなる「俺たちの旅」。
その旅は、それぞれの世界で、もうしばらくは続きそうだ。end
2014年
8月
11日
月
忘れていた言葉を久しぶりに聞いた。
いや、正確には見たのだけど。
「もりげん」とか「もげん」という呼び方だ。
これは、大分(おおいた)市内のF中学校で学んでいた頃の、わたしの呼ばれ方だ。卒業のペン画集を見ると、同じ学年に森君が3人居ることも関係しているかな。
不思議なもので、「もりげん、もげん」という呼び方はその時期以外は、わが人生の中でされていない。
****************
懐かしい呼び名で呼んでくれたのは、F中の同期生の小川君。彼からのメールでのことだった。
小川君は確か関東在住。
いつも、関東方面の同級生の海外への異動があったり、大分から出張で上京して来る人が居たりすると次のようなメールが届く。
「小川でーす。皆さんお元気ですか? 突然ですが、〇〇君が東京に来るようなので、どこどこに集まりませんか?その後は、どこどこに流れるなんてプランがあります。ご都合をお知らせ下さい」
****************
僕は今、北海道・稚内に居るよ、と伝えていなかったわたしの方に落ち度があったのだけど、これは嬉しかった。
それだけではない。
残念かつ申し訳なかったのだが、小川君は、わたしが福岡在住だと思い込んでいて、こう知らせてくれたのだった。
【突然ですが、今回お盆の時期、8月11日~17日に1週間ほど福岡に帰省します。もし、森さんのご都合のいいときがあれば、教会を訪問させていただければと考えております。1時間くらいお時間いただけたら、私や同級生とかの近況報告ができればと。ご都合いかがでしょうか。】
小川君の現在のご実家が同じ九州の大分から福岡に移っている様子で、わたしがまだ福岡の教会に在任と思って、おじゃましてもいいですかぁ、と連絡をくれたのだった。
****************
とは言え、実はわたし。小川君とはF中の3年間でクラスが一緒になることはなかった。
部活も多分彼は軟式テニス部(*再会を果たしてわかったが、「水泳部」が正しかった。たぶん、同期会で同じく再会した「安藤くん」と勘違いした模様。括弧を足すのだけに留めて敢えて修正はしません)。わたしはサッカー部。隣同士で大きなボールとちいさなボールを追っかけることはあっても、深くはまったく知らない人物だった。
だから、F中の一部の者へのメーリングリストを配信してくれる彼の心配りある通信によって人柄に触れつつ、40年前の小川君の顔を思い浮かべながら過ごしていたのだった。
いや、同時に、40年前のF中の同期生のことも、「あー、〇〇、女の子だけどバリバリ頑張ってるんだんぁ」などと勝手に想像しつつ過ごしていた。
****************
二人きりで話をしたこともなかったのに、小川君からのメール。何と言う嬉しい呼びかけだろう。
わたしも、
「どんな近況を聴けたのか、僕ら、多分同じクラスにはなったことが無かったのですが、聴いてみたかったです。どうぞ、関係の皆さんによろしく!大分では同窓会やっているのかな。オリンピックイヤーかW杯の年でしたか?」
と返信した。
するとこんな返信。
【同じクラスになったことは、正直、F中時代にはなく、直接の交流はなかったかもしれませんが、あの濃密な3年のときを同じ時空で過ごして、共通の知人があるというだけでも、特別な人であることは、お互い間違いないですよね。今回会えないのはそれも何かの偶然、きっといつか会える】と。
そして、こう添えてくれた。
【大分で4年ごとに大同窓会を開いているのはオリンピックの年。次回は東京2020のいっこまえの2016年、リオオリンピックの年です。そのときにご縁があればそれもよし。それ以前にご縁がありそうでしたら、ご連絡ください。
本当に、いろいろありますが、心身とも健康でいれば、何でもできる!来る再会を楽しみにしております。今日、福岡に帰省しました。明日、早速大分の旧友に会いに行きます。北の大地で暮らしているもりげんくんのことを、みなさんに伝えてきます。ではでは、おやすみなさい。小川】
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何とも気持ちが軽やかになるメールだった。
小川君が「あの濃密な3年のとき」と表現してくれたけれど、F中で過ごした3年間は、自分にとってもまさにそういう場所だった。
今振り返って見ると、大分市内やその他の地域から、いちおう、入学試験があってF中学校に入学してきたみんなは優秀だったと思う。
単に勉強ができるという人の集まりではない。
もしかすると様々な偶然(神の導きとも言い換え可能)が重なって居るかも知れないが、類い希な個性の仲間たちが、とっても大らかに、和気あいあいと、始まったばかりの青春を謳歌し始めていたように思う。
生まれて54年目を迎えているわたしたち同期生。ふるさと大分に留まっている人も、そうでない人もそれなりに多いことを知っている。
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中学時代から更にさかのぼれば、大分市郊外の大在地区という田舎部落の小学生としての6年間があるわたしなのだが、「濃厚な3年間」を過ごした中学時代と合わせて、故郷を思う心は、何とも人をあたたかくしてくれるものだ思う。
小川君はそのことを思い出させてくれた。
考えて見れば、小学生・中学生の頃の9年間+アルファは、今は亡きわたしの家族が、一つ屋根の下に暮らして居た時代なのだ。
もはや、両親も居らず、きょうだいも召され、家もなくなり、帰るべき故郷を失っているかと思っていたわたし。
そんなわたしに、まさかの訪問予定を告げてくれた小川君のメールは、「もりげん君」との呼びかけで、ぼくらには皆で帰ってくる場所が今もこれからもあるんだよ、という大切なことを知らせるスイッチだったのだ。
小川君は神さまからの「御使い」じゃないか!
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あなたは帰る場所を持っていますか?
確かこれは、わたしが、今年度の稚内北星学園大学のキリスト教概論の講義の中で、学生さん達に問いかけていた重要テーマの一つだった。
帰る場所を持とうよ、とわたしは語った。
大学生には、神さま、イエスさま、教会とは敢えて言わなかった。でも、そのことを考えながら、生きることの大切さを一緒に考え始めよう、とは伝えた。
そして、帰る場所をつくる努力や、自分自身が帰る場所に成ることも、これからの人生には必要なのだと。
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4年に一度のペースで続いているF中学の大同窓会。
次はブラジルのリオでの2016年8月のオリンピックの時らしい。
小川君ありがとう。
妻に頼んで、2年後の夏は、久しぶりに故郷・大分に戻る貯金を始める、という具体的な目標を、君は芽生えさせてくれたよ。end 又は continue
2014年
8月
04日
月
きのうの礼拝。
説教の時に持参した原稿は、いつもと違う形のものが含まれていた。
簡単に言えば、縦書きのものと横書きのもの。
以前から、どちらが話しやすいのだろうと思うこともあり、きのうは、ある部分までの原稿は、縦書きにした。とは言え、それはワープロ変換されたもので、自分の手で書いた原稿ではない。
その他、自分がペンを持って、白紙の紙にあれやこれやと記した原稿もあったし、あることについてパソコンの聖書データを分析したものもあり、それは、横書きだった。
で、説教は何か変化があったのだろうか。
いやいや、そもそもなぜ、縦書きの原稿を交えたのか。
切っ掛けと言えば、一般には、縦書きの方が読みやすいと言われるから、ということになるだろうか。新聞、週刊誌ほか、速読が求められるのはほぼ縦書きになっている。
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ところがである。考えて見ると、日頃のわたしの説教、原稿を読むというか朗読することは、かなり少ない方なのだ。
聖書や他の書物からの引用を、大きめのポイントに拡大して印刷している場合もあるので、その時はもちろん朗読する。
しかし、肝心な部分。
つまり、説教の中でも解説ではなく、メッセージ性を含んでいる部分というのは、たいして原稿は見ていない。
そして原稿に記していても、その通りに語ること自体も少ない。聖霊が与えて下さったと確信することばを、予定外に、何のメモも無しに語ることが日常とも言える。
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となると、縦書き・横書きどちらで説教原稿を準備するのか、ということは、わたしにとっては、あんまり意味が無いことなのかしら。
読み上げて説明しなければならないもの。暗記する事はとても無理な引用などは、見やすさを考えて、それなりのものを準備をすれば良い、ということか。
その他はプロット(筋・構成)のようなメモでことたるのか。
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インターネットで、「縦書きと横書き」についての検索をかけて調べて見た。
目に留まったものに、ある民放の現役の幹部の方のエッセーがあった。元々はアナウンサーのようだ。
『空言舌語(くうげんぜつご)』というページの「高井一さん」である。東海放送編成局専門局長の肩書きがある。そして興味深い連載をかなりの本数、続けておられるようだ。
以下紹介するのは、第191号。
もっともそこで高井さんの論考は、アナウンサーとして正確に読んで伝える、ことを第一に考えてという制約はあるに違いないが。
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以下、『空言舌語(くうげんぜつご)』というページの「高井一さん」の引用。改行は読みやすさからわたしが適宜行ったもの。
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ニュースはパソコン入力になった今も、独自にソフト開発した縦書き原稿です。ドラマ、バラエティ番組、情報番組の台本も縦書きが圧倒的多数です。
それには理由があります。
日本語の音声表現は「頭高尾低」といって、文頭から文末に向って自然と音程が下っていきます。タテ書きの原稿なら、文字を追うと眼と首は上から下へ動きますから、音程が下がっていくのと生理的に矛盾がありません。
これが横書きだと、眼も首も左から右への水平の動きになるためか、[高]→[低]への音程変化が難しくなってきます。
横書きだとベテランのアナウンサーでも「頭高尾低」の幅が狭くなり、表情のない読みになってしまいます。
それでも放送の現場では、横書き原稿が増えてきました。同僚アナウンサーのナレーションを聞くと、「これは横書きの原稿だ」と分かることがあります。高低の変化が乏しいからです。
それほど横書き文は「音」に出るものです。
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東海放送の高井局長さんの使われていた、「頭高尾低」ということばを初めて知ったので、「ググる」と、こんなことを記して居る方が居られた。
「伝え方」ボイストレーニング(株)トップオブボイスカンパニーの江頭さんという方のFacebookで見たもの。以下抜粋。
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例えば、
「夕飯、何食べる??」
「ん??」
では、夕飯にありつけません。
「夕飯、何食べる??」
「中華!!」
これでも、具体的な行動にはなかなか結び付きません。
しかし、
「麻婆豆腐!!それもクックドゥ使わないバージョンの!!」
となると、どうですか??
とたんに、「具体的なアクション」として行動に結びつきます。
豆板醤、ネギ、木綿豆腐、ひき肉、味噌を準備して・・・みたいに。
そのため、いかに言葉にするか? それがめちゃめちゃ大切になってくる・・・
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縦書きか横書きか等と考えるよりも、もっともっと、《ことば》に仕え、語る者として立ち止まるべし。
思いがけず、そんなところに辿り着いてしまった。
景色が思い浮かべられるようなメッセージを、聴き手が身構えなくても良い、聴き取りやすいことばと声量で、美しく伝えられること。
そのような自覚的な訓練も必要だなと思う。
聴衆が聖書の舞台に身を置いているかのように、匂いを感じ、人々の眼差しを感じ、人が動き始め、なにがしかの色が浮かび上がるように物語ること。
礼拝が終わってからもっと聖書を紐解きたくなる説教。そんなことも目標にしつつ、じっくりと打ち込んで励みたい。
時々接することだが、素晴らしい内容であっても、聞き取れない、あるいは、聴き取りにくい話は本当に残念だな、と思うことが多いのも事実なのだ。
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半年ぶりくらいに、家の中で効率的に運動が出来るステップを再開した。
一月だったか、牧師館から教会に向かう坂道で思いっきりスッ転んで左膝を痛めてすっかりご無沙汰していたのだが、ようやく少しやる気が出てきた。
30分程の運動の時間、噺家さんの様々な落語をYouTubeで楽しみながらステップを踏んでいると、これまた、すごく教えられる。
彼らは語ること、即ち、噺のプロ。
その語り口は、反面教師も含めて、たいへん有り難い教材となることに気付いた。寄席ではそんなことを学べないが、YouTubeでは、余計な事も考える暇(いとま)がある。
しばらく、続けてみよう。end