わたしが仕える旭東教会。
2016年度の計画案、いわゆる「宣教の骨子」というものについて先週の2月定例役員会で相談した。
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実はその叩き台を準備するのにだいぶ苦労した。1月の役員会が終わってからほぼ一ヶ月、ぼんやりと考え続けていたけれど見えてこなかったのだ。
本腰になって何かを書き始める気持ちの高まりを待っていたことも理由ではあるけれど、すーっとはことは進まなかった。
いろいろな経緯はある。
助言を得ながら、短い言葉で、的確に、しかもありきたりではなく、旭東教会らしい、今後しばらくはこれで行こうよ、という感じのものをわたしは欲していた。
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それが、13日の土曜日の朝、降って来た。
説教の準備は遥か遠い頃のことである。
メモ用紙とボールペンを手になんども何度も、書いては捨てを台所のカウンターに立ったまま繰り返していた時だった。
「これからの旭東教会のイメージ」を的確に表現する言葉を探していた。
そして
《ごろんゴロンと転がりながら あゆむ教会》
と記してみた。
誰もほめてくれない(笑)ので自画自賛しよう。これが気に入った。
これは「教会標語」でも「み言葉=聖句」でもない。それはそれで準備。
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世の学校や企業で言うならばキャッチコピー、コーポレートアイデンティティとかイメージに通じるものだろうか。
それ“も”絶対に必要だと感じていた。
そのようなセンスを持たないと真理の言葉も宿らないし、伝わらない。
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最初にあったのは手書きの五角形の図。
《共に》を頭に置きつつ以下を置いた。
【生きよう】【伝えよう】【仕えよう】【学ぼう】【歌い 祈ろう】を五角形の五隅に記したのだった。
他にもチョコチョコッと工夫をしているけれど。
楽しいけれど時間の掛かる作業だった。
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様々な人生の時を生きるのがわたしたち、と最近つくづく思う。
いずれかに全力を注げる時もあるし、いつだってどんな時でも、バランスよく様々に関われる、という人柄の方も居られるだろう。
そしてまた、その力が時にアンバランスになったり、偏りがあることも一方でとても大事なこと。
あるいは、調和がとれて微動だにしない安定した時期も必要だと思う。
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五角形の教会は動き、また、止まれるハズ。
まん丸だと、勢いよく転がり始めると止まれなくなる。でも五角形ならばそうは行かない。
どんなに勢いがあっても二回転くらいで必ずstop出来て、一休みが入り、脇道にもそれられるだろう。
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このイメージが与えられた時、礼拝説教で語るべきことばが与えられたのと同じ喜びがあった。
視界が晴れた。
そして、これだと確信できた。
何かの参考書があったのでもなく、オリジナルのものである、ということが何とも言えない嬉しさを生んでくれている。
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変な言葉でいい。
キリスト教会は変なところがあってしかるべき。
最初は違和感があるくらいで無いと、さらにもっと素晴らしい対案など、感嘆には生まれたりしない。(もり)