2015年11月17日(火) № 209 『  ぼんやりと、しかし、はっきりと  』

交換講壇で鳥取の倉吉教会から帰ってきたところ、教会の冷蔵庫に貼られていたのがこれ。実は、カレーを食べてから気付いた。すんません。
交換講壇で鳥取の倉吉教会から帰ってきたところ、教会の冷蔵庫に貼られていたのがこれ。実は、カレーを食べてから気付いた。すんません。

学歴というもののトリックというのか、騙されてはいけない事実が世にあることが、ここ数年、だいぶ分かり始めた。本当に遅ればせだが。

 

こんなことを久しぶりに書きたいなぁと思ったのは、11月8日(日)付・毎日新聞『今週の本棚』の欄にあった、佐藤優さんの評による本の紹介だった。

 

佐藤さんは同志社神学部を卒業された、元・外交官で作家だ。佐藤氏の発信されていることを知り尽くしているわけでもないし、幾つかの本を読んだに過ぎない。

 

が、『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのか―論理思考のシンプルな本質―』(ダイヤモンド社・津田久資著)の「書評」は、それを読むだけで、あることが不思議な程にクッキリと浮かび上がって来て大いに励まされた。

 

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佐藤さんはその書評の中でこう言われている。

 

「日本のエリート教育は、教科書に書いてあることを正確に記憶し(理解しなくてもいい)、1時間半とか2時間の制限時間内に筆記試験で再現する能力を向上させることに主眼が置かれている・・・・・・日本は学歴社会にすらなっていない。大学入試の偏差値で能力を評価する「入学歴社会」なのである」

 

と。

 

そうなんだよなぁ。その通りなんだなぁと思う。

 

学歴=考える力=生きる力でもなんでもないのだ。

 

だけれど、偏差値の高い学校に入ることが最上の価値観という誤魔化しにわたし自身がどこかで飲み込まれていたのだろう、と思う。

 

そんな馬鹿なことはないと明確に言い切れるようになってきたのは本当にこの5年程のこと。

 

やれやれ相当気付くのが遅い。

 

もっとも、本当に力のある方が、結果として学歴が高く、偏差値も高いことがあることは認める必要もあるだろう。

 

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津田久資さんの本から佐藤氏が引用している箇所だが、さらにこう記されていることに、わたしは、はー、そうだったかぁ、と自分本位に納得し、身勝手に力を得た。

 

単純に嬉しくなったのだ。

 

なにしろその新聞記事の切り抜きをバッグに入れて持ち歩いている。

 

佐藤氏自身が彼の感性においてとりわけ重要なこととして受けとめたからこそ記されたのだろうと推測する。

 

以下、しばらく佐藤優氏が津田さんの書から引用し、さらに、ご自身の思いを書き込まれた箇所だ。

 

「〈人が考えているかどうかを決めるのは、その人が書いているかどうかである。・・・・・・これまでの人生の中で、真剣に考えたことがある方は思い返してほしい。あなたは1時間とか2時間、腕を組んでう~んと唸りながら思考をめぐらしていただろうか。そういう人はかなり少ないと思う。本当に考えたときには・・・・・・何かしら必ず書いているはずである。逆に言うと、それがない限り「考えていた」とは言えないのである〉」と指摘する。この指摘の通りと思う。・・・・・・きちんとまとまった思考でなくては、うまく言語化できないことがわかる。裏返して言うならば、思いつきを、意味が通った文にする訓練を繰り返しているうちに、論理的な思考力が身につくのである」

 

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妻がわたしのことを「売れない作家やもんねぇ」と言うことがある。

 

もちろん作家のレベルでも何でもないことは承知している。漫画家でセッセイストの東海林さだおのようになりたいなぁと時にふと思うが、それも無理なこと。

 

けれど、確かに10年位前、上越市の教会に仕える頃から、Blogに近い、そして、このホームページと同じ名前の「森牧師の部屋」という勝手気ままな部屋を当時の教会HP内につくって、週毎にせっせと何かを書くようになった。

 

いや、それ以前にも小さなコラムをある教会の『週報』で記していたのが萌芽、と言えるかも知れない。

 

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なぜ自分はkeyboardをたたくのか、深く考えることが出来ないままだったのだけれど、佐藤氏のこの度の書評は、自分自身を見つめ直すのにとてもありがたいものだった。

 

つまり、わたしは、つたないながらも何かを書き続けることで、何かを考えたかったのだ。たいした論理ではないし、2時間も唸りながら考えることは少ない。でも、それなりに考え続けている。

 

いやそれだけではない。

 

ある頃から、何も書くことが出来そうにないような時でもパソコンの前に座り、書き始めるということを自分に課すようにもなったのだ。

 

その結果なにか生まれたのか、と言うと、実は聖書を読み解き語ること=説教へのおぼろげだが、内なる確信だった。

 

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「毎日が説教やけん」と博多弁の妻がこれまた時に言うことがある。

 

「毎日が説教やけん」

 

実にヘンテコな言葉だ。そして世の中に通じない表現だと思う。

 

けれども、実はこれ、的外れとは言えない言葉だと思う。自分には教義学的、或いは、組織神学的な思考はとても出来ないことは深く自覚している。

 

しかし、おそらく説教の言葉を平凡な日常の中に求める作業を続ける感性をみがくこと、そしてまた、スイッチを切らない訓練を自分にノルマとして課してきたこと。

 

それは、今の、そしてこれからの自分のあゆみを整えていくために必要なことなのだ。

 

世にあるブログのような気の利いた短さはここにはない。でも、わたしの内なる求めに従うと、自分が納得するまで打ち続けている。

 

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とは言え、この数年、礼拝説教の原稿は、実は書けなくなって来たし、あまり書かなくなった。

 

もちろん、何かしらをメモしたりしている。調べものもする。何かに書き写さなければとても記憶できないことだってあるに決まっている。

 

しかしである。

 

「それが原稿なの?」と言われるようなものしか記さないことも多い。その方が、今のわたしには似合っているのだ。

 

人は変わる。わたしも変わる。

 

神学生の頃時にお世話になったS子牧師がどんな文脈だったかは忘れたけれど「これからは、あなたも書くことが必要なのだから」という意味のことを言われたことがあった。

 

その時は正直言えば、困ったものだなぁと思った。そんなことがこの俺に出来るのか、と心配になったのだ。

 

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何が励ましになるのか、分からないものである。

 

さして佐藤氏が紹介している本も読みたいとは思わない。でも、たいそうありがたい書評であり、佐藤氏の語りたかった文脈とは違っていても、構わず、糧にしたいと思っている。end

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