※Attention 親しく信頼する友人の引用文を挟みますので、かなり長いです。
(2015,10/25の旭東教会『週報』のミニコラム「窓」に大幅加筆し掲載します)
10月29日、木曜夜の祈祷会が終わった9時過ぎ。聖徒の日・召天者記念礼拝に備えての会場作りが始まった。
男性会員が中心となって10時半頃迄。
添えてある写真がその完成形で、天国に居られる方々の『写真帖』を乗せる為の段作りだった。
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作業自体は、私が旭東教会一年生のため、どんな風に段取りを進めていくのか、どこから、何が出てくるのかほとんど分からなかったため、しばらくは様子を見ていた。
最高齢の正さん(91歳)も、「森先生はここに座っていて」と言われ、ご自分も、そろそろ自分が動いているようではイケンと思われている様子。
でも、じっとしていられたのは数分。結局は大活躍だった。
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テーブルを出し、更に、特製段飾り?を引っぱり出し、白布を掛け、写真もほぼ設置し終わった頃に講壇の右奥に移動していた「あるもの」を降ろすことした。
作業前に泰さんから「これがいつも問題になるんですぅ」と言われていたが、その時は、まぁ後で考えようか程度にしていたのだけれど、結局は、その「あるもの」をいつもの位置に戻すことにした。
それが大切と思い直したのだった。
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「あるもの」とは「聖餐卓」。最後の晩餐・主の晩餐の食卓である。
青年時代、まだ聖書もキリスト教も深く分かっていなかった頃の事、ある教会で聖餐卓に何気なくぽんと荷物を置いていたところ、叱ってくれた方が居られたことが懐かしい。
もちろん、神学的な意味などわかっていたはずがない。
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聖餐卓を礼拝堂の特等席である講壇付近に鎮座させているのはどこの教会でも共通していることと思う。
神学的な論議はともかく、久しぶりの我が家である旭東教会に天国から帰ってきた家族とどこで話をするのが良いか。
それはやっぱり、積もる話は昔と変わらぬ「食卓」でというのが一番ではなかろうか。
というよりも、そのようなイメージを抱くことが出来る礼拝は奥行きが感じられ豊かになっていくだろう。
妻の祈りを聴いていると、聖餐式とは直接結び付かない礼拝やその他の時でも「主の食卓に…」という言葉が出てくる。大切なことと思う。
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ここまで書いていて、それでもなお、聖餐卓については考えさせられることを経験してきたことを少し記しておこう。
わたしは新潟は上越市の教会で奉仕していた時代に、中越地震と中越沖地震に遭遇。後者では、書棚がほぼ全てバタバタと倒れてしまうような中に身を置いた。
そして中越地震の時に、同じ地区の同労者である十日町教会の新井牧師らが大変な中に身を置きながら立ち上がって行く経緯を支援に係わる中で見せていただいた。
新井純牧師の以下の文は、『働く人』に掲載されたものだが、彼にしか記すことの出来ない洞察に満ちたもので、北海道に居た頃、説教の準備をしていて、どうしても、この文章を読んで確かめたくなり、電話を入れたところ、添付してtext送って下さったもの。
教会に託された宣教の使命に誠実に生きる中で、主の晩餐を祝う聖餐卓について、深くふかく考えさせられるし、多くを教えられる。
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以下、しばらく引用文。
働く人原稿「殻は破られる」
新井純@十日町教会
昨年のクリスマスイブの夜、キャンドルライトサービス直前の十日町教会礼拝堂から、ハンドベルの演奏や讃美歌練習の様子がテレビを通して生中継された。
礼拝中の中継ではなかったが、直前にバタバタしていたら礼拝の雰囲気が壊されるのではないかとか、テレビ中継なんて教会にはふさわしくないと感じる方もおられるのではないか、という不安もあった。
しかし、結果は、教会が地域に開かれる大きなきっかけとなり、放送直後の礼拝には、テレビを観てやってきた人たちも少なくなかった。
十日町教会ボランティアセンターが開設されたのは、新潟県中越地震発生から2日後の2004年10月25日夜だった。
躊躇はなかった。ただ、父母と妻に、これからしようとしていることを話した。協力が必要だったし、誤解を恐れずに言えば巻き込んでしまうことは必至だったからだ。三人とも、私の話を当然のこととして受け止めてくれた。さらに、新潟地区長上島一高先生にも相談をした。協力を惜しまないとの力強い言葉に身震いした。
震災発生の3ヶ月前、7月13日に新潟県下を大水害が襲った際、新潟地区は三条教会に情報支援センターをおき、情報収集並びに発信、そしてボランティア宿泊などの活動が展開された。
私も活動に参加しながら、もし私がここの牧師だったら?あるいは、私が遣わされている現場で災害が起こったら?ということをずっと考えていた。
そしてもう一つ、支援活動に出遅れたことを大いに悔やんでいた。その時の経験、悔い、そしてシミュレーションが、今回どれほど役立ったかは言うまでもない。
教会センターには、問安者やボランティアが続々と駆けつけてくれた。横浜YMCA同盟を中心としたボランティアコーディネーターの面々も、被災各地の災害ボランティアセンター立ち上げや支援のために現地入りし、教会センターを利用した。
ひろばを作れば、人は集まる。公園があれば、子どもたちが集まり遊ぶ。
(中略・もり)
教会は誰にでも開かれているとは言いつつ、実際はどうだろう。敷居は思いの外高いらしい。そうしてきたのは、教会自身ではないかという謙虚な振り返りが必要なのかもしれない。
どこで、どういう風に?と問われると答えに窮するが、例えば、教会はこうあるべき、という思いこみが強ければ強いほど、地域への扉を堅く閉ざす結果になっていくというところだろうか。
もちろん、信仰において妥協するつもりはないし、教会の伝統が軽んじられていいということでもない。ただ、その時何が一番大切なのか、何を守るべきなのか、その信仰的決断は何に基づいているのかというようなことを、常に自らに問い続けなければならないということ。
震災後、礼拝堂を避難所として開放したが、避難されてきた方が増えたので、講壇の上にも寝てもらうことにした。
その際、聖餐台が余震で倒れると危険だと思い、これをひっくり返して脇に置いた。すると、誰かがひっくり返した聖餐台の足に洗濯ロープを結びつけ、そこにタオルや下着が干されるようになった。
この時に、「これは単なるテーブルではなく、これこれこういう意味を持っている」と伝えるのは簡単だ。でも、不安の中で避難してきた人たちが、少しでも安心して過ごせる場を提供することの方が、その時点では大切なことだと思った。ある意味では、私自身の殻が破られ、解放された瞬間である。
水害や震災によって、私たちはうち砕かれた。
しかし、うち砕かれたのは家や生活ばかりではなく、自己本位になりがちな生き方そのものがうち砕かれたといっていい。
それは決して望んでもたらされた変革ではない。
にもかかわらず、その変革を多くの人は拒否しようとはしなかった。むしろ、気持ちの良い変革であったとも言える。
そのことを思い返していると、主イエスがもたらしたものは、人々の内なる変革だったということに改めて気づかされてくる。
誕生の出来事ひとつとっても、それは予想外の仕方であり、人々の思いこみを打ち壊すものだった。
それだけでなく、生き方そのものが型破りであり、さらには、救いという出来事が、救い主が十字架にあげられて死ぬことによって罪が贖われるという、一見すると敗北とみられる仕方によってもたらされたということ、つまりは救い主に関してあらゆることが人々の思いこみをうち砕いたものであったことを福音書は伝えている。
教会にとって何が大切なのかを問う時、それは福音宣教という答えに行き着く。ただし、福音宣教とは、聖書の言葉を伝達することだけではない。様々な仕方があり、フィールドがある。
それをなそうとするときには、困難に直面することもある。でも、考える、あるいは動かされるきっかけが作られ、それが例えば災害という望まない形であったにせよ、私たちがこれに応えようとした時、私たちは自分たちの殻が破られていくことさえ感謝をもって受け入れることができるのだということを教えられたように思う。
年が明け、被災地は19年ぶりという豪雪に見舞われた。十日町市内でも積雪3メートルを記録した。教会センターに、再びボランティアたちが集まり、雪掘りに汗を流した。皆さんのすがすがしく気持ちよさそうな笑顔を、被災地の人々は決して忘れない。だって、何よりの励ましだったのだから。
以上引用終わり
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「先生これどうしましょう」と語りかけて下さる泰さん。
最近は、博多育ちの妻からの博多弁講座を受けて、「しぇんぇー」と話しかけてくださったり、ある時の電話では「どげんかしたとですか?」等と楽しい会話が弾むことがある。
一〇〇年前の時代の方々と聖餐卓を囲んでの食事での会話はどんなふうだろうか。
その思いを膨らませていくと、時代を超えた人々との礼拝での宴(festa)のイメージが広がる。(もり)