幾人か居られる恩師の中のお一人のO牧師。もう隠退されてから20年近くが過ぎているはず。
隠退後にまとめられた本の片隅に、忘れられないこんな言葉がある。
本の中に収められているのは折々の言葉や神学論部に近いものもあるが、これは説教についての解説の言葉だ。
【1967年から1972年までの○○教会季刊誌、"枝"に掲載した説教の中から抜粋したもので、34歳から39歳まで、30代後半のものです。こうしてまとめてみて、未熟ではあるが、この頃に自分の説教のスタイルが出来てきたことを改めて感じました。】
とある。
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「俺は晩成型か」と少し前にこのBlogで記したわたし。
神学校他でO先生が語られたこと、記されたことは、今でも時々読み直したり、思いめぐらすことがある。
実は、上にご紹介した言葉を、本を開いて確認したくなったやり取りが先日の日曜日にあった。
わたしが礼拝で語った説教をきっかけに、礼拝後に立ち話をしながら語ってくださる方が居られたからだ。いやいや、近くのうどん屋さんでの昼食時も斜め向かいに座っておられて、その続きを語ってくださった。
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O先生は【この頃に自分の説教のスタイルが出来てきた】と書かれているが、何とそれは、30代後半とあるではないか。
おいおい。先生はもうその頃、み言葉を語るということにおいて一つの到達点に達していたとは。
あらためて読んで見て驚いた。
1960年生まれのわたし。今年55歳になる。
まだまだあっちにフラフラ、こっちにふらふらしながら変わりつつあるなぁと感じる。
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説教に関わる言葉とはこういうものだった。
「先生の説教は○○○○○。」「○○がいい。」と。
更に加えて、「ほんとうに先生がそう考えていることを語っているのが分かる。」とも言われたと思う。
二番目の○○という言葉は、わたしの牧師人生の中で、三回目=三人目に聞く言葉だった。なるほど、この方もそう感じて下さったのか、と思った。努力していることでもあったので嬉しい。
だが、ひとつ目の○○○○○は初めてのほめ言葉だったし、「ほんとうに先生がそう考えていることを語っているのが分かる」というのも、思いがけない指摘だった。
これも有り難いこと。重ねて感謝だった。
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牧師の転任。
これは、考えて見ると別れ道であり分岐路である。
いやいや、それどころか、人生いつもちいさな選択と決断の連続だから別れ道とも言える。
これまでの経験や積み重ねを抜きにみ言葉を語る、ということは有り得ないけれど、新たな会衆との関係性の中で、言葉は紡ぎ出されるのだなぁと明確に知った。
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阪神淡路大震災のただ中を生き抜かれた牧師の講演を10年近く前に聴く機会を頂いたことがある。震災直後から語り続けられた説教集も確か出版されていた。
その頃のわたしはほんとうに驚いた。
「十分な準備の時間など有り得ないのに、いったいどうして、説教を語り続けることが出来たのだろうか」と驚愕したのだった。自分にはとても無理だと感じた。
けれども、今の自分は少しだけかも知れないが成長できたのかも知れない。
緊急事態が起こり、大混乱に遭遇しても、聖書というテキストと、今生かされている文脈=コンテキストを紡ぎあわせながら、自分なりに何かを読み取り、語ることが出来るかも知れない、とボンヤリしたものを感じられるようになった。
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妻は何かの折りに、「だから、わたしが言っとぅやろ。毎日が説教やけん」(博多弁です)とわたしに話した。
それは一度だけのことでは無い。
何度かそう語った、というのが正しい。
「毎日が説教やけん」を解説するのは難しいれど、説教に通ずる出来事が、われわれの平凡な日常の中に毎日起こり続けている、ということがそこには含まれているのだろう。
説教のよき聴き手である妻の言わんとすることは分かるような気がする。
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おそらく、わたしの説教のスタイルはこれからも変わり続けるだろう。
み言葉によって新しくされ続けることは、わたし自身の楽しみなのだと思う。
「一番恵まれるのは、説教を語り続けることに仕えさせて頂いている牧師」とは、妻に洗礼を授けて下さり、いつもわたしたち夫婦を心に掛けてくださった今は天国に居られるI先生の言葉だが、本当にそう思う。
幸せな務めをあたりまえのことと考えず、しっかりとした努力を続けたい。み言葉を取り次がせて頂く場に生きること、それは何と光栄なことだろうか。end