秋の土曜の夜。
わたしにとって忘れ難いたいせつな先生が、晩年に近い頃に記された言葉を読み返してみた。
神学校入学時に出会いを与えられ、稚内教会就任時の祝いのメッセージを記してくださった葉書を讃美歌に、今もはさみこんでいる先生の言葉だ。かつてわたしが仕えた教会にも喜んでお出でくださり、もりもりと旨いものを一緒に食したことも懐かしい。
一冊の本の数ページだけだが、その先生の言葉がある。
ふむふむと肯き、確かめながら、打ち込んでみた。
以下、少しお付き合いを。
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〇振り返ってみると、平凡にたんたんとこつこつとやってきた、というのが実感です。
〇・・・・多くのことをやってきました。その中で、疲れたり、恐れたり、困ったり、気が進まなかったり、ということも多くありましたが、「これもまた私の召命の一部なんだ、これも私が生き残らされた意味なんだ」と思いつつ、こつこつとやってきました。
〇・・・・気が進まない仕事でも、やり終えると「やっぱりやってよかった」と思わされる、そういう経験を重ねてきました。
〇『その故は神知り給ふ
シュザンヌの手紙』(新教出版社)に・・・次のような言葉があります。「そうだ、私たちが打ちひしがれた時・・・義務は祝福されるべきだ。それだけが私たちを助けて、どのようなことがあっても前進させ、頭を高く揚げさせ、生き続けさせてくれる、この義務は祝福されるべきだ。 ・・・・主よ、何ごとがありましても、前進出来ますように、自分の義務を――人々に対する山のような義務を、果たすことが出来ますように、どうぞ助けてくださいませ」。
この「義務は祝福される」という言葉は私の指針となってきました。私はこの仕事を、楽しいから、自分がやりたいからやっているのではなくて、神に委託されて行っている。神に依って教会の職務に任職されている。・・・・気負ったり無理をしたり、能力以上にがんばったりせず、しかし手を抜かず・・・・。
〇「牧師になってよかった」と感じるのは、日曜日の朝です。近くから遠くから神さまに礼拝をささげるために人々が集ってきます。そのための仕事ができるのはなんという幸いであろう、と思いました。神さまは私がこの仕事をまっとうできるように、繰り返し繰り返し私を呼び続けてくださいました。
*以上『主の招く声が 召命から献身へ』(日本キリスト教団出版局、今橋朗、2010年より抜粋)
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牧師館から車で7分ほどの日本海に面する“坂の下”あたりまで、もう冬がやって来ているのでは、と感じるような強い風が吹きぬけるここ数日。
気がつくと、落ち葉が吹き溜まりで山となり、ほぼ裸ん坊状態の樹ばかりの街並みだ。あたらしいミツウマの長靴を買いに行かなければと思う。
クリスマス前の冬至まで、見る見るうちに日が短くなるのが最北の町のこれから。
大相撲のお相撲さんが九州場所にやって来てくれる博多近郊の街並み、そして、高い空が懐かしくなり始める、というのも本当のところだ。
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昭和7年・1932年生まれの先生は今年天国に帰られた。
本を読み返してみて、少し慰められ、先生でさえそうだったのだなぁと力を頂いた。
先生の葬儀に出席した友人に依ると、【最後に皆と奧さまにたくしたことばは、ありがとう、さよなら、またね、ごめんなさい】だそうだ。
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前述の著書の中にある、先生のひと言を最後に記して、このブログを閉じよう。
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〇まじめさで貫こうとしていて喜びがない。・・・・夏の修養会で、朝、一人で森を散歩しながら、このことを思いめぐらしていました。すると、聖書の中に初めから書いてあるのに、自分の中にあまり響いてこなかったことが、徐々にわかってきました。それは、福音の中心はイエスの十字架ではなくて、キリストの復活であるということです。この経験は私にとって第二の回心とでも言えることでした。
・・・こうして・・・・キリスト教が私にとって「福音」になったのです。私は初めてくつろげるようになりましたし、この転換がなけれ牧師にならなかったと思います。
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「献金ってメモしておいて、忘れとったから」と家人が叫ぶ声が聞こえた。
明日は日曜日。イエスがキリストとして復活された祝いの日。
いや、正確にはもう今日だ。安心して休もうと思う。end