姉が亡くなってから15年が経つ。1999年当時中学3年生だった甥っ子が30歳。当然、自分も歳をとるわけである。
姉・啓子はエルビス・プレスリーの熱狂的なファンで、「エルビス オン ステージ」なる映画を大分市内の映画館に二人で出掛けて観ていた記憶がある。わたしがたぶん小学校高学年の頃だろうか。
映画関連の月刊誌も家にあったような気がする。『スクリーン』だったか、『ロードショウ』だったか。違っていたらゴメンあそばせ。
丸まる三学年違いの姉は、当時中学生だったのだろう。エルビスのLPレコードを買って来ては、ステレオの針を落として大きな音で聴いていた。隣の部屋にいた私は、その音を自然に聴き続けた。
だから、今でも、たまーにラジオからプレスリーが掛かると、あれこれ懐かしい気持ちになる。
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たぶん、姉の部屋にあったステレオは、当時暮らしていた大在の姫野電気さんから買ったHITACHI製の一番小型のステレオだったはず。
父の末の弟の良三郎おじさんが、日立家電、今の日立製作所で働いていたことも関係していて、わが家というか森家の電気製品のほとんど全てがHITACHIだった。
今もその名残の、「日立家電」の名前が刻まれた温度計が、私が暮らす牧師館の居間にぶら下がっている。いやぶら下げている。傷ものなのだが捨てられない。
これからも静かにそこに居てもらう。
祖父母の暮らしていた母屋の茶の間、子どもの頃、毎日朝晩の食事をしていた掘りごたつ型の茶の間にぶら下がっていた思いでの温度計なのである。
写真がその日立家電の温度計。なんと、CITIZENにつくってもらったものだと今気がついた。
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「母屋」という言葉の意味は様々なのだろうが、とにかく、わが家では、祖父母の暮らす家を母屋と呼んでいた。
それに対してというか、両親とわたしたち姉弟は母屋ではなく裏の家に暮らしていた。
実を言えばそこはふるーい納屋を改造した、今思えばあれもこれも足りない家だった。納屋と言えば聞こえがいいが?ただの倉庫である。
ぶっとい柱が露わになっていた納屋で、子どもだったわたしにも天井が低いと感じた位だから、よくもまぁ暮らして居たものだと思う。
くみ取り式のトイレはあったが、台所なんては無かった。食事は母屋に行って食べていたし、風呂なんて当然なくて、それもまた母屋という暮らしだった。
それが当たり前だったわたしには何の不自由もなかったが、名古屋育ちの母にとって、おそらく、相当なストレスが掛かっていたようだ。父の夏休みには、一家で名古屋に暮らしていた母方の祖母の所に押しかけていたことも懐かしい。
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書きたいと思うことがあって、キーボードを打ち始めたのだが、話題がすっかりズレてしまった。
その話題とは、チューリップというミュージシャンのギタリスト・安部俊幸さんの、突然の召天にまつわることのはずだったのに・・・。
それはいずれまたとしようと思うが、それにしても、安倍さんのリードギターが、二度と再び鳴かなくなるチューリップのことを、わたしは全く予想していなかった。
そのためだろうか、実はわたし、少なからずショックを受けているこの頃(なのだと思う)である。
博多出身の彼らの音楽がわたしは好きで、車には、彼らの全シングルがまとめられたCDを乗せ、しばしば聴いている。
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前述の姉の部屋にあったHITACHI製のステレオで、中学の頃のガールフレンドから借りたLPレコードをかけた。それがチューリップだった。「心の旅」が大ヒットした頃だと思う。
たぶん、その事に触れて何かを記し、少しばかりこころを落ち着かせたかったのだと思うが、なぜか・・・話はそれた。
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それにしても、人生って、ポツリぽつりと何かが欠けていくのだなぁ。
いやいや、満ちていると思うその瞬間だけがわが人生なのではなく、欠けている時こそ人生そのものか。
秋の夜にふと思いつつ、きょうはこの辺で。end