今号、長くなりそうです。体力のない方。既に夏ばての方は、遠慮なくPassをお奨めします。なお、増補版でない方の28号は、PDF版ですが、稚内教会ホームページのお便りの中にあります。
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8月でも平均気温が22度程の稚内。
招聘(しょうへい)を受けて九州から赴任する前に、インターネットでその季候についての情報も少し集めたりもした。ただし、その時は、正直言えばピンと来なかった。
稚内に暮らし始めて一年目の頃は、教会や幼稚園の先生方が26℃位になると、「ひゃー、暑い、あつい、マイッタ」等と言っているのを聞くと、何と贅沢な、これくらいで? と思うことがあった。
涼を求めて水まきを始める幼稚園の先生の行動を見ていて不思議に思ったものだ。
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ところが最近のわたし。25度にもなると、やる気が一気に失せてしまう。本州以西ならば、25度の夏なんて、夢のような気温だと思う。
長野県の軽井沢とか、山梨の清里方面に、さあ出掛けようという人々は、それ位の気温を願って移動を始めるのだ。
だからだろう。新聞を見ているとわかるのだが、この季節、稚内には、プロやアマチュアのバスケットボール部の方々が合宿に来ている。ほんとに運動部の合宿にはピッタリの季候だと思う。
体も動くし、食欲も出てくると思う。
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6月中旬から7月にかけて行われたサッカー・ワールドカップ。日本は苦戦した。日本代表の中心メンバーの多くが欧州のチームで活躍しているため、彼らは一年も日本を離れてしまうと、体があちらの季候になれきってしまうらしい。
そうしたことも、ブラジルで力を出せなかったことに関係しているのでは、という分析を読んだことがある。
ま、私見では、もともと今回の日本代表には、チームとしての逞しさとや力強さというものがなかったのだと思っている。「自分たちのサッカーが出来なかった」というのは、ほとんどのチームに言えることだろう。
話は当地の季候のことだ。とにかく、わたしも、稚内の季節感が体に染みこんで来たのは間違いない。
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6月最後の日曜日。以前もご報告したことではあるが、奏楽はオルガニスト、そして、奏楽者たちの先生として知られている木田みな子先生が担当して下さった。
みな子先生とは神学生時代にオルガン(器楽)を受講した時からのお付き合いだが、実はさらにさかのぼるご縁がある。
みな子先生のお連れ合いは、昨年4月に天に召されて行った、木田献一先生だ。旧約学の碩学というか、新共同訳聖書の翻訳や大型の注解の発刊にも尽力された偉大な先生で、わたしたち日本聖書神学校の同窓生は旧約聖書を教えて頂いたのだ。
その献一先生について、実は神学校の入学前にわたしの父から「木田先生。この人は、東京教育大学(東京文理科大学、現筑波大)の大学院の下村寅太郎先生の哲学のクラスで机を並べていたんだ」と聞いていたのだった。
みな子先生と初対面となった1989年のその時、既に、お互いの親しさがあったのは、献一先生と父のそのような出会いと無縁ではない。
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みな子先生。
わたしからのお世辞は本当にひとかけらもなく、80歳を過ぎているとはとても思えない程お元気さだった。
かたじけないことに、何十年ものあいだ神学校で教えておられて初めてのことだったらしいが、月曜日の講義を休講にしての来稚と相成った。
献一先生の召天後しばらくしてから、おそるおそる電話をしたのが切っ掛けで、北海道で伝道・牧会している教え子の教会で共に礼拝を捧げようと心に決めて東京からお出で下さったのだった。
心の内には「伝道しに行く」という思いも抱いて下さっていた様子だ。実際、神学校の講義の休講理由もそのような趣旨のことを教務の先生に伝えたようだ。
もっともこれもまた、物語があるのだが、新潟県上越市の高田教会に仕えていた頃に、みな子先生をお迎えしての、中越地震の復興チャリティーコンサートを行ったり、賛美を学ぶ計画をしたり、奏楽者の育成の時間を持ったりもしていたので、何だか不思議な交流がずーっと続いている、ということになる。
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みな子先生と稚内入りの打合せをしていたある日、「今、稚内教会の奏楽はどうなっているの?」という意味の質問を受けた。
「かくかくしかじかで、3月末には中学校の音楽の先生が転任されて・・・・ヒムプレーヤーのことが多いんですよ・・・」と伝えた。
すると、「あーら、じゃあ、その日はわたしが奏楽をさせて頂くわ」という事に相成ったのだった。全くの手弁当というやつで、ボランティアである。
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ほんとうに様々な気付きが与えられた木田先生の来稚だったのだが、礼拝のことだけに絞って言うならば、わたしにとって、衝撃的、と言ってもよいくらい、びっくりしたオルガンの音に触れる瞬間があった。
6月29日の礼拝の祝祷後のアーメン三唱の時のことだ。
わたしは、祝福の言葉を口にした後、オルガンがいつまで経っても鳴り始めない。
そのため、「あらら、みな子先生、いったいどうしたのかしら。オレの伝え方がまずかったかなぁ」と心配になり、講壇からオルガンの方に目を開いて見てしまっのだ。
Ustreamの録画を自分で見直したので間違いないが、わたしは心配そうにオルガンの方に顔を向けている。
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と、その時だった。
みな子先生は、しずかーに、体を揺らしながらペダルを足踏みを始めた(はず)。
そして、本当に小さなちいさな、まさに息をするような微かな音がオルガンから出てきた。
アーメン三唱が、少しかすれる程度の音で、ゆーっくりと鳴り始めたのだった。
教会生活を始めてから、あのような小さな音の後奏を聴くのは初めてと断言して嘘はない。母教会のパイプオルガン、ましてや、300人を越える礼拝堂ではあの音は出そうにも出せないだろう。
電気・電子の音ではなく、息を吸うこと、吐くことの大切さを様々な形で実践していると、みな子先生からはお聴きしていたが、まさにあの後奏の音こそが、わたしへのみな子先生からの明確な答えだったことを知った瞬間だった。
ピアニシモの豊かさとはこのこと。一番弱くちいさな音なのにもっとも、心の奥深く残る後奏となったのだ。
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これは私的には事件だった。
あの音は、かれこれ70年近くオルガンのペダルを踏み続けて来られた先生だからこそ到達している領域かも知れない。
あれはテクニックとして真似てもおそらく同じ音は出ないのではないか。
作家の田辺聖子は、話に味が出るのは究極的には「トシやでぇ」という結論に至ったと『楽老抄 ゆめのしずく』(集英社)書いているが、あの日のみな子先生のオルガンの音は、トシとは違う、と思う。
まさに、木田みな子の信仰のあらわれなのだ。そして、大きな深呼吸を伴う祈りだった、とわたしは受けとめている。
あの日、あの後奏がなる前のわたしの祝祷の声は、その日以前とは明らかに違う。幾つかの要素が重なったのだが、礼拝の讃美歌や奏楽を聴き、歌う中で、わたしの祝祷・祝福の言葉は、変えられてしまったのだった。
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さて、毎年7月と言えば道北地区の交換講壇だ。
新潟に居たときもほぼ同じ頃に交換講壇が行われた。春からの慌ただしさも落ち着き、夏休み前のこの季節は交換講壇にピッタリの季節だと思う。
今年は、道北地区で一番多くの会衆が集う旭川六条教会に出掛けることになっていた。
当日の移動では何かトラブルがあってはいけないと思い、余裕をもって前日に旭川入りすることにしたのだが、稚内教会に入れ替わりでお出でになった、六条教会の西岡昌一郎先生との打合せの際に、とてもよいヒントとなる言葉が与えられた。
西岡先生、こう仰ったのだ。とても助けられた、と思う。
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「わたし、せっかく稚内に行くのだから、早めに出掛けてサロベツ原野に寄りたいなぁと考えています。それから温泉も・・・」と。
そう。
自分で忘れているわけではないのだが、ハッキリとこういう言葉を先輩の口から聞けたことは、まっこと有り難いことだった。
就任式の時に、北海教区総会議長の久世そらち牧師が「北海教区の牧師たるもの、大いに遊ぶことを大切にするように」という趣旨の挨拶の言葉を下さったのだが、あらためて、ちょっとした遊び心をもっての伝道は大事だなぁ、と思い直すことが出来た。
西岡先生。小樽の教会、そして、旭川とかれこれ30年近く北海道で仕えておられるはず。北海道での牧会が長い先輩の、ごくごく自然な姿勢に触れられて感謝している。
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わたしはと言うと、往きは少しばかり遠回りではあるけれど、日本海側のオロロン街道を通り、留萌経由で旭川入りすることにした。
昨年の留萌宮園伝道所に一泊しての交換講壇の事なども想い起こしつつ、日本海の遙かなる水平線を見ながらのドライブとなった。
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週に一度出掛けていた、稚内北星学園大学の「キリスト教概論」の授業も最終日を迎えた。
テストはせずに、レポートを提出してもらうのだけど、昨年までの問題とは違う内容にしてみた。おおむね以下が今年のキリスト教概論の問題である。
もっとも、出席点を半分くらいは加味することを最初から伝えているのだけど。
【 課 題 】
2014年度の「キリスト教概論」の講義で、講師の森が全15回の講義を通じて受講者に提示し、共に考え、伝えようとしたことで、あなた自身が気付きを与えられ、受けとめ、あなたのこれから先の人生(学業、社会人、家庭人、地域に生きる者として)で大切にしたいと思うことはどのようなことか。
それはまた、キリスト教概論を受講して良かったと感じることと考えても構わない。論じる上で、そう考える理由についても記しなさい。
※論じる際に、授業で配布した、あらゆる資料、絵画・本・讃美歌など自由に用いて構わない。ただし、引用時はそれを明記すること。
■レポート課題提出時の約束事項
【字 数】400字~2000字以内。
【書 式】課題はWordで作成し、LMS上に設定した窓口へ提出すること。名前、学籍番号を忘れずに付けること。
【その他】
(1)独自のタイトルを付けて論じること。
(2)「はじめに」、「本論」、「結論」等の形で段落分けすること。
(4)字数を最後に明記すること(空白も含めて)。
このように落ち着くまで3年掛かった。
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最近の大学では、授業内容や講師に対する学生からの評価が学期の最後に行われる。
最終の授業の日の冒頭の10分程で書き込むアンケートのような用紙があり、学生が回収。そのまま、講師の手を経ずに学生課の担当に届けられる、担当の方が即日分析し、わたしの元に手渡されるのだ。
内容の一部をご紹介しよう。
〇第7番目【熱意の感じられる授業だったか】
これに対して、【強くそう思う 70% 、そう思う 17%】との回答があったことは素直に嬉しいことだ。
〇第10番の【授業全体についてよく理解できた】
この問いへの回答は【強くそう思う35%、そう思う22%、どちらとも言えない43%】だった。
そうなのだ。よく分かる授業ではなかった、ということのようだ。まだまだ、努力が必要。精進したいと思う。
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キリスト教概論の授業では、毎回、最後の10分に、出席しての感想や、わたしからの具体的な問い掛けへの思いを記してもらう時間がある。
テストではないけれど、小さな紙を配布し、心に残ったことを記してもらうのだ。
ある時、少し休みがちだったひとりの学生はこう記してくれた。
【相変わらず他の授業とは全く違った雰囲気が出ていた。また、かなり来ていなかったのに、次回からは休まないでという言葉に心が救われた】
後日、「T君が記してくれたあの言葉の意味はどういう感じなの?」と尋ねた。
すると、「先生。それは良い意味なんです。他の先生の授業とは違う、こう、何て言うか・・・・」と語ってくれた。
「全く違った雰囲気」
それは本当に嬉しい応答だった。
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あともう一人。
最後のちいさなペーパーにこのように添えてくれた学生さんが居た。
【キリスト教の幼稚園では神父さまとよくお話をしていた。私が話すのをだまって聴いてくれて、そのあと話をしてくれる。その時だけは無になれた。この講義でも、先生の話を聴いている間だけは無になれた。すくわれた。ありがとうございました】
わたしは、自分の足らないことが多いことを自覚するが、こちらもまた、あなたのひと言に救われたのです。
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最終講義の日、その日を含めて(わずか)〇度目の出席となったW君の姿があった。わたしはずーっと彼が来るのを待っていた。
学期始めの『講義概要・シラバス』に「出席回数も重んじて評価します」という旨を記していたので、簡単に「あなたにも単位を約束するよ」等とは言えない。
講義の後、誰もいなくなった教室の片隅に座って、話を聴くことにした。
後志(しりべし)地区方面出身のW君。ある福祉施設で夜勤のアルバイトをしていて、一限の授業は厳しかった、とのこと。
以前の講義の時にも聞いていたのだが、わたしと同じ珈琲好きだともあらためて確認したので、近く、教会で「一杯」やりながらの補講を計画している。
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次号をお届けする頃は、もう秋風が吹く頃かも知れない。
油断していると、夏があっという間に駈け抜けていこうとしている、そんな稚内の今なのだ。end