神学校というところで学びたいと思い始めた頃、ひとりあれこれと思い浮かべながらイメージしていたのは、修道院のような生活だった。
けれども、修道院がどのような所であるかも知らないのだから、ますますわが貧しい心の中のイメージたるやいい加減なものだった、と言うほかない。
とある映画の中で観たワンシーンから、修道院の世界を創り出していたのかも知れない。
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入学がゆるされた神学校。夜間の寺子屋のような学校だった。それまで勉強というものをまともにしたいと思ったことがなかったわたしにとって、本当に寺子屋教育は有り難かった。
そこは、想像していた所とはかなり違った。
それだからと言ってがっかりしたり、絶望したなどということはない。何もかもが新鮮だったし、興奮しながら毎日を生きていたと思う。
聖書を原典で読むための一歩としてのギリシア語の授業の小テストに備えて、単語カードを手にして暗記したりもした。同級生もたぶん同じだったはず。
とにかく、授業にはついていくのに精一杯だった。しかし、心底たのしかった。
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卒業してから20数年。
今でもふと思いだす授業のひとこまというのがある。
全体の講義の流れなどとっくに忘れてしまっているけれど、教授や講師の先生の表情とともに、忘れがたい〈言葉〉が今も心に残っている。
つい最近の日曜日、礼拝説教で語るみ言葉としてエレミヤ書がめぐってきた。教団の聖書日課に沿ってのものだ。
その中に【わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す】(エレミヤ書31・33)という言葉があった。
胸に、心に記される言葉が神学校の授業の中にもあった。目から鱗が落ちることばに触れ、心弾むことも多かった。
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机を並べた同級生がどう思ったかはわからないが、振り返って見ると、少なくともわたしの胸と心に深く刻まれる言葉を、特に多く語って下さった先生が居られることに気づいた。学問的なというよりも、伝道者としての心得を問うような言葉を発しておられた。
授業の前にお祈りをする。
それは、神学校では当たり前のことではなかったのだが、その先生はいつもお祈りをしてから担当科目の講義を始められたと思う。
必死にノートを取っていたから、今でも、それを開けば色々と思い起こしたり、助けになる情報が記されていると思う。
しかし、それ以上に、エレミヤではないが、心に刻まれ今でもかみ締めさせられるたいせつな言葉を、その先生はたくさん残してくださった。
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その多くに、一つのパターンがあることに気がついたのは、牧師になって何年かしてからのことだった。
どのような法則か。
先生はボソボソとした口調で時々脇道にそれて行かれた。そして語り出すのだ。そこで語られる言葉の多くは、ご自身の心にそっと秘めておいてもよさそうな失敗の告白だったり、懺悔とも聞こえることすらあった。
ご家族の病気について口にすることもあったし、皆さんだったらどうしますか?と言う問いかけの時もある。
今振り返ってみるならば、先生も悩んで居られたのだ。
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先生が神学校の教授としてバリバリとご奉仕なさっていた頃の『学報』の中に、牧師も含めての聖職者の《やせ我慢の勧め》のような文章がある。もちろん、神学校の学報の文章だから、「アスケーゼ」という言葉を鍵にして神学的な論考となっている。
日本語では、アスケーゼを「禁欲」と訳すことが多い。
先生は、アスケーゼの先にあるのは結論的には「喜び」だと言われる。そしてその途上には修錬や訓練が必要とおっしゃる。しかも、先生らしく、それが人にわかるような仕方ではしなさんな、と言葉を添えられる。
わたしなりに調べて見ると、アスケーゼの本来の意味には、もう一つ、「専心」ということがあるようだ。つまり、より大きな目的を達成するために、他の道を断ってでも集中して心を注ぐ生き方のことなのだ。
いずれにせよ、先生は自分にも厳しい方なのだ。
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「みなさん、お祈りしていますか? 教会で一番お祈りするのは牧師じゃないですよ」。そう言われる方だった。
では、先生は祈りをおろそかにされたのかと言えば違うと思った。
ある時に、「自分は祈祷会の時に早く席について待っている」とおっしゃった。その後に言葉を続けたわけではない。
だが、わたしは現場に仕えるようになってようやくわかったのだった。
牧師と神学校の教師と二足のワラジを履く者として、せめて、みんなよりも早く祈りの筵(むしろ)に身を置いて、教会の一人ひとりのことを祈りたい。
そう心の中で語っておられたのだと。
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「教会に赴任して信徒さんの家に皆さんは行きますか?」と言われたことがある。
そして全く別の機会だったと思うが、自分は毎週土曜日に、信徒の家庭に週報を届けている、と話して居られた。
なるほど、と今思う。
先生は、ドアをノックしないまでも、その家のポストに週報を届けることを通じて祈りに代えておられたのだ。訪問できなくても、どこに暮らし、どの道を通って教会に通ってくるのか、せめて知っておきなさいということだろう。
土曜日に印刷したての週報を届けつつ説教の黙想をし、週報のことを口にしつつ、自分なりの牧会の在り方を規定して居られたのだ。
総じて先生は、神学生に語ることを通して、退路を断つ道を選ばれていたのだと感じる。それが自らの“務め”と言い聞かせながら。
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本を出すことを好まない先生だった。もう15年前になるが、隠退されてほっとされた頃に、一冊の本をまとめられていて、わたしの手元にもある。なぜか、時々開いてしまう本だ。
「あとがき」が始まる直前のページに、こんな言葉を記されている。
【隠退後のストレスは今のところない。(ただし、ただ一つの我慢は、今も心にかけている懐かしい教会のかたがたに安否を問うような連絡を私の方からはしないことである。これを守るにはかなりの精神的エネルギーが必要である)。】
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先週の後半、木曜日だっだろうか。牧師館の電話がなった。妻が出た。
週の半ばから、全国ニュースで北海道東部と北部に猛吹雪という情報が流れていた頃だった。
「〇〇さんからです」と妻。
〇〇さんと聞いて思い浮かぶ知り合いは、二人だけしか居ない。
どちらも電話を自分からしてくるような人ではない。そのうちの一人が、ここまで記してきた先生だった。先生と電話で最後に言葉を交わしてから20年以上が経っていた。それも、気まずい会話だったことをハッキリと記憶していた。
受話器越しに「〇〇です」とボソボソっと聞こえた。
「〇〇〇〇〇先生ですか」とわたし。
「そうよ。だいじょうぶ? もう、我慢できなくてねぇ、とうとう電話した・・・・。大変でしょ。よく行ったねぇ。天気予報を見る度に、家内と話しているんだよ。正直に言いなさい・・・」
「よく・・・」とは、自然環境の厳しい稚内に、いくら招聘(しょうへい)があったとは言っても、大変だろうに、という意味だと思う。
もしや、奥さまの前であまりにつぶやくので、「あなた、そんなに気になるなら、我慢しないで電話すればいいじゃないの」とでも言われたのだろうか。
「頑張れとは言わない。あのねぇ、いつも思っているから。祈っているから」の言葉で電話は終わった。
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先生が書かれたご本の最終ページに記しておられた。
「ただ一つの我慢は、・・・・・安否を問うような連絡を私の方からはしないことである。これを守るにはかなりの精神的エネルギーが必要」
という言葉は、牧会された教会の信徒の方たちだけに向けられた言葉ではなかったのだ。
既に80歳を過ぎたはずの先生。しかし【わが師の〈アスケーゼ〉・「やせ我慢の神学」】に〈ほころび〉がみえた。
いやいや、〈ほころび〉ではない。
〈よろこび〉と〈ほほえみ〉が受話器越しに感じられた瞬間だった。
隠退されても牧師であり先生。教え子のことも牧会して下さっている。
〇〇先生、本当にありがとうございました。電話は切れても、何かがしっかり、つながりました。元気でいらして下さい。end