2014年3月3日(月) №121 『 ひとりの寄る辺なき者として 』


「ひとりの寄る辺ない人間」と関わることについて記されている『小論』が目に留まった。

 

下稲葉康之というドクターが居られる。

 

下稲葉先生は福岡市博多区の香住丘キリスト福音教会(九州福音キリストフェローシップ)を開拓伝道された牧師でもある。

 

しかし下稲葉先生。現在は、福岡にあるキリスト教の精神に基づく栄光病院の理事長で同病院の名誉ホスピス長を務めておられて、教会の方は今、協力牧師のお立場のはず。70歳は越えている方だ。

 

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わたしは下稲葉先生と個人的なお交わりがあるわけでは無い。

 

けれども、20年程前から栄光病院の協力牧師会のメンバーに連ならせて頂いており、福岡を離れた今も、緩やかな交わりが与えられていることを感謝している。

 

先週、栄光病院のNPO法人栄光ホスピスセンターの機関紙『栄光ホスピトラ』の最新号(2014年2月1日発行)が届いた。月曜日の今日、ちょっと時間があったのでじっくりと読み直していて、下稲葉先生の言葉に立ち止まらされた。

 

小論のタイトルは、【改めてホスピス緩和ケアの原点を考える~「個の力・チームの力」~】。

 

その中に、「寄る辺ない人」という言葉が出てくる。

 

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下稲葉先生は、日本のホスピス医療の草創期から関わり始めて、現在では、国内では有数の病床数を持つ病院に育てられた方として広く知られている。

 

先生の小論の最後に、「これまで七千数百名の患者さんが私たちスタッフを育んで下さった」とある。

 

七千余名の方々を看取られるとは生半可な数ではない。その中の幾人かは、わたしが教会生活をご一緒した方や教会員の家族だ。

 

既に、病院運営のための次世代へのバトンタッチや地域に貢献する医療の革新的な取り組みを推進されている方が、現時点でたどり着かれた末期ガン患者さんの存在を表す言葉。

 

それが「寄る辺ない人」だと言う。

 

【「末期状態の患者」と云うよりは「寄る辺ない人」として、様々なアプローチを続けている】と明確に記されている。

 

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【寄る辺】とはそもそも、どういう意味か。

 

わたし、自信がないので、辞書を読み較べた。

 

フツウ、我々が使うときは「寄る辺《ない》」という否定の形で使われることも念頭に置きつつ考えてみよう。

 

■『新明解国語辞典』は簡潔である。「たよりとする所(人)」
■『スーパー大辞林』は少し長く、「たよりにして身を寄せるところ。たのみにできる親類縁者」
■『広辞苑』は「たのみとする所。よりどころ。よすが」

 

なるほどねぇ。【ない】とセットにして、総合するならばこうなる。

 

「頼りにする人も、親戚縁者も、身を寄せる所も、よりどころも無い状況に置かれている人」。

 

それが、下稲葉先生が言われたところの、「ひとりの寄る辺ない状況を生きる」と言い表される人間像なのだ。

 

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下稲葉先生の小論の舞台として第一に考えられること。

 

それはもちろん、終末期状態を生きる患者さんとの日々、即ち、人生の終焉に臨んでいる人との関わりを持つ病棟や病室でのこと、となる。

 

がわたしは、下稲葉康之先生が現時点で到達し、小論において記されていることを、〈ホスピス緩和ケアの場〉から〈教会でのこと〉に置き換えて考えてみた。

 

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すると、まず思い浮かんだのは、誰よりもわたし自身が「ひとりの寄る辺ない人間」として過ごしていた頃のことだった。

 

なにも隠しようがないし、本当にそうだと認めるが、実にわたし自身が寄る辺ない人間だったのだ。

 

わたしが、自らの意志で思いを定めて教会に通い始めていた頃、本当にわたしには居場所が無かった。ある疾患が理由だったとは言え、行く場所も無かった。

 

なにより、身を置く場所がどんどん失われていくことを実感していた。入退院の繰り返しの中、こころ落ち着く場所が病院というような状況だったのだ。

 

そんな“浮き草状態”のわたしを救ってくれたのが、実は、東京の銀座のど真ん中にありながら、なお下町の家庭的な空気が残る都会の教会だった。

 

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小説家の後藤明夫氏は「昨年の入院、手術は“過去”であるが、単なる“過去”ではなく、“現在”でもあるが、もちろん“現在”だけでもない」と『メメント・モリ 私の食道手術体験』(中央公論社、1990年)の中で記している

 

「ひとりの寄る辺ない人間」であったわたし。

 

過去においても「ひとりの寄る辺ない人間」であったと同時に、今も、そのことと無縁では無く、現在も「ひとりの寄る辺ない人間」として生きる誰かとの出会いが与えられている。

 

否、今の私も、妻が亡くなってしまえば、ぽつねんと立ち尽くすか、座り続けてしまう人になるのだろうと思う。

 

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しかしながらである。

 

栄光病院の下稲葉先生は、「ひとりの寄る辺ない人間」との関わりを持つ上で、一定の限界を認めつつも、なお未来に希望を見いだそうとされている。

 

「ひとりの寄る辺ない人間」との関わりには、当然、「個の力」が必要なのだ規定される。しかしそれに留まらない。

 

それと同時に、「寄る辺ない人」の持つ、多様で深刻なニーズには、「個の力」(病院では医療スタッフ)が総合されてチームとして関わる時に、総合的な「チームの力」を「ひとりの寄る辺ない人」に対して提供できるはずだ、と結論付けられている。

 

そこで指摘されていることは、まさに教会という、わたしが生きている場においても、そのまんま当てはまることに違いない。

 

個の力には限界がある。だからこそ、キリストを土台とした幹に連なる共同体としての力が必要になるのだ。

 

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下稲葉先生はその小論の中で【陶冶(とうや)】という言葉にも触れられている。

 

かなり控えめに【陶冶(とうや)】について触れて居られるが、わたしはそれがたいそう気になった。

 

ホスピスケアのスタッフの一員として、つまり、患者さまに仕える立場の人間は、人格陶冶(とうや)が必要だと言われているのだ。それは、ご自身にも当てはめながら記されていると思う。

 

【人格陶冶(とうや)は私たちの耐えざる課題として銘記すべきことである】と明記されている。

 

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未熟者のわたしは、「陶冶(とうや)」という言葉を日常的に使えるような人間ではない。習熟しているともとても言えない。が、学ばなければならないことと感じる。

 

「陶冶(とうや)」とは、おおむね、【人間のもって生まれたものを、色々な試練を経させて、役に立つ、一人前の人間に育て上げる。人の性質や才能を鍛えて育て上げる】という意味だと言える。

 

「ひとりの寄る辺ない人間」と出会い続けるために、陶冶(とうや)、それは避けて通れないことなのだと言う。

 

そう、自己訓練や鍛錬、あるいは、キリスト者としての修錬がわたしにも必要なのだと考えさせられる。

 

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【患者さんが私たちスタッフの「個の力」「チームの力」を育んで下さった。授かったこの「力」でこれからの新しい患者さんとの出会いを大切にお仕えしていきたいと思う】で締めくくられている小論。

 

特定のパーソナリティーやカリスマ、そして、リーダーシップによる、共同体の成長や展開には限界がある。

 

そのことを深く認識されている下稲葉先生の言葉は、今、わたしが生かされている現場に通じることを思わずには居られない。

 

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キリスト者以外の方が読まれる読みもの。それが『栄光ホスピトラ』であるから、遠慮しながら、下稲葉先生はこう記して居られた。

 

【ここで、キリスト者としての立場で敢えて申し上げるならば・・・】と控えめに言いつつ、聖書の言葉に触れている。

 


【3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。】(第2コリント書3章18節)

 

このみ言葉を引用されることは、栄光病院のホスピス病棟で七千名を超える死に直面する人々に仕え続けて来られた先生らしさが溢れていて、本当に素晴らしいなと思う。そして嬉しい。

 

一切の働きの土台は主によるものだと信じ、告白されているのだ。

 

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わたし自身が、陶冶(とうや)されることを避けていてはならない。そして、〈わたしたち〉にもその厳しさが求められる。

 

そして、個の力を豊かにすることを願いつつ、同時に、自らの限界を認めざるを得ないがゆえに、まさに、わたしの生きている文脈の中でのさまざまな「チーム力」を大事にしながら歩みたいものだと思う。

 

わたしの知っている下稲葉先生。患者さまにはやさしさに満ちている方だ。

 

けれども、わたしたちが向き合ってお話を聴くときには、下稲葉先生も牧師であるからだろうか。いつも、厳しさを羽織っておられると感じる方だった。そのような、先生の言葉を今読めたことを感謝したい。

 

「ひとりの寄る辺のない人」との出会いは、この最北の町において今も、これからも続く。end

 

 

 

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