稚内教会のホームページ、2013年2月7日のブログ。『 “終活”はじめましょうか 』というタイトルで、ポチポチと打ち込み、UPしたものがある。
(http://wakkanaich.jimdo.com/)
あるお寺の和尚さんの取り組みも目に入って、書いたものだったと。今考えて見ると、こちら(「森牧師の部屋」)のブログの方がよかったかな、と思うような内容。
一般に言われるところの「エンディングノート」の〈稚内教会版〉の原案をつくったときのもので、タイトルは、【天国への旅立ちの備え】。簡単に紹介している。
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【天国への旅立ちの備え】は、一枚の紙ではなく、冊子形式のものとなった。
こういう類いのものとしては、ページが多すぎたかも知れない。でも、どうしても端折ることはできなかった。
原案はわたしがつくったが、役員会でも何回か相談し、教会総会を経て完成させた。
ただし、サッさっ書込んでと提出できるようなものではない。
別に用意していた用紙で、〈愛唱賛美歌〉と〈好きな聖句〉を記入して提出をされた方は幾人か居られるが、【天国への旅立ちの備え】はそうはいかない。
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キリスト教的な考え方からすると、エンディング(終わり)でありつつ、「departure 」(出発)「start on a journey 」(旅立ち)の希望を与えられていることを、教会は明確に語っていくことが大切だし、福音信仰の根源的な部分にかかわるものであることは間違いない。
昨日、10月13日の礼拝。
創世記11章の終わりから12章にかけてのみ言葉と通して、「アブラハム75歳の出発」という題の説教をした。
祈りつつ、わたしが語るように導かれたこと。
それは(決して、ただそれだけを語ったわけではないのだが)、わたしたち、様々な「旅」に出るように神からの招きを受けていて、その究極の旅とは、天国に向けての旅なのだ、ということだった。
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きのうは、久しぶりに礼拝においでになったご夫妻が居られた。二人にひとりが癌になるというこの時代に、ご夫婦二人して癌を患って居られる。
少し深刻な状況にあることを先週末、ご自宅でわたしはお聴きしていたのだが、ほぼその時にうかがったのと同じ内容のことを、きょうは、礼拝後のティータイムの時に、御主人も奥さまも、みんなの前で話してくださった。
しかも、抗がん剤治療をしなければ「年単位ではなく、月単位で・・・」というような、本当にシビアな情況だとも語られた。
一見するとお元気そうなのに、現実はなんと厳しいことかと思う。
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しかし、わたしは、礼拝後のお茶の時間、「あー、これこそ、教会だなぁ」と感じていた。
診察室以外のどこで、こういうことを、静かに語り合うことが出来る場所があるだろうか。
そこには、苦悩だけでなく、ひかりと温もりがあった、と信じたい。
生まれてきた者。誰一人例外なく、平等に“その時"を迎える。それだからこそ、より良くこの地上での旅路を歩みきるためにも、旅の備えが必要なのだと思う。
そんなことを深く思う、秋の夜だ。end