前号 №78 『 「respect」と「story」 』に、偶然かかわることがあった。わたしの神学校の頃のオルガンの先生、木田みな子先生と久しぶりにお話しする時間をもてた時のことである。(*オルガンは、選択科目の単位を修得しただけで、奏楽ができるわけではありませぬ)
今年の4月24日、みな子先生の最愛の夫である木田献一先生が御国へと帰られたことは知っていたのだが、ずっとご無沙汰してしまっていた。
木田献一先生からは、神学校時代に旧約学を教えて頂いた、書棚にある本を引っぱり出せば、略暦などを正確に紹介できるけれどここでは省略。「出エジプト記」にある“熱情の神”、そして、預言者たちの“passion”を受けて生きる旧約神学者とはこういう方か、と思わせる先生だった。
昭和一桁にしては本当に粋でかっこのよい長い白髪をかき上げながら、ご自身の完成間近の論文?の最終原稿を、授業の中で一気に読み聞かせて下さった、あの日が懐かしい。
献一先生は、日本聖書協会の『聖書 新共同訳』が1987年に生まれるときに、その賜物をすべて捧げてくださった方でもある。決して消えることのない素晴らしいお働きに改めて感謝。わたしは新共同訳で育てられた人間だ。
以下、みな子先生が皆さんにこの半年の間に、様々な形でお話しになっていることのようなので、お分かちしたいと思う。
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みな子先生に依れば、『シメオンの賛歌』(NUNC DIMITTIS)が、献一先生の最期の日々の心境だったと知った。
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、 あなたの民イスラエルの誉れです。」
(ルカによる福音書 2章29節~32節 聖書 新共同訳より)
NHkラジオで、7,8年前だろうか、『詩編』を語る連続講座を担当されていた程なので、詩編を病床で読んで欲しいと、ときおり求められていたようだ。
ラジオ放送の語り口が、講義の時の献一先生の熱い語り口とはことなり、学者というよりも、「あー、木田先生、牧師だなぁ。牧会し、伝道されている」と感じた。本当におだやかな口調で、当時のわたしは驚いた。放送を聞いていた妻は感動し、手紙を書いた程である。
それにしても、「シメオンの賛歌」を抱きつつ天に召されて行ったとは、感慨深い。
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わたしは、新潟の教会に仕えていた時代に、教会で開くことになった「中越地震の復興チャリティーオルガンコンサート」にみな子先生をお招きしたことがある。
「わたしに、オルガンだけじゃなく、礼拝のお話を求めたのは、森さんだけ」みたいなことを笑顔で言われたりするお交わりを頂いてきた。礼拝堂でリハーサルのお手伝いをしていた時、練習後、「今、聖霊が降ったわっ!」(だから自分でも信じられないような演奏が出来たという意味だろう)と口にされたことが懐かしく思い出される。
そんな親しい間柄だったのに、いろんなことがあって、ここ数年ご無沙汰したままだったので、あることを切っ掛けに電話を入れてみたのだった。もちろん、(あれやこれやをひっくるめて)「ごめんなさい」と伝えたかった。
先週の昼間のことである。
幸い、ゆっくりとお話し出来る時間があったみな子先生。献一先生を天に送られて半年近くが経ち、さみしさを感じ始めていると言いながら、ご家族をめぐる献一先生の最期の7週間の出来事をお話してくださった。
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木田みな子先生とご家族は、献一先生が転移性肝臓癌の末期とわかった後も、いわゆる治療も延命措置も受けずに、自然な形で最期を迎えるまでの日々を送られたそうだ。7週の間にご家族を巡る復活の物語(story)がさまざまに起こったことを知った。
ご長男とご長女が、病床の献一先生から洗礼を受けるに至ったこと。洗礼式の式文は、みな子先生が代読したこと。お二人のお子さんが、何十年ぶりにか、食卓で祈ってくれた喜びと感動も口にされた。牧師でもある献一先生、そしてみな子先生も、親としてずーっと時が来るのを待ち続けておられたのだろう。みな子先生は、声を弾ませて嬉しそうに語られた。
わたしが洗礼式を執行するときに数滴入れて使う“ルルドの泉の水”(冷蔵庫に保管している)というものがあるのだが、くしくも、お二人のお子さん達の洗礼式に、同じく“ルルドの水”が使われたことも知った。
ところが、奇跡を呼び起こすといわれる“ルルドの泉の水”を使うことについて否定的なワカランチン(笑)が周囲にいたようで、わたしのような牧師が居ることを喜んでくださった。
葬儀の準備について家族で献一先生に確認したときに、「奏楽はだーれ?」の言葉に対して「ママしかいないだろう、今さら何を言うんだい!」という意味の言葉が自然に聞こえて来たこともうかがった。
そして、葬儀の時には、みな子先生がオルガンを弾かれたこと。それゆえ、葬儀の時は緊張で泣けなかった、と。だから、今、涙が・・・とおっしゃっているようでもあった。
世にあってよわい立場に置かれた方たちに対して、実に愛情深く、理不尽な求めがあっても、忍耐強く接しておられたという献一先生のこと。
そしてまた、奉職された3つのキリスト教主義大学でのお働きの中での苦悩と喜びについても、お話し下さった。
あるいはまた、妻として夫のことをどんなに尊敬し、愛していても「まったく もう」と思うことが幾つもあったはずなのに、今では、腹が立ったあれやこれやの全てが消え去り、一切が感謝であり、懐かしく、さみしいとも。
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聴きながら思った。『 「respect」と「story」 』の大事な瞬間が与えられているのだなぁ、と。
翌翌日、東京から直ぐにお便りが届いた。葬儀の時のいわゆる挨拶状、そして、稚内教会への捧げもの、さらに、お子さんたちとお友だちが力を合わせて発行された、詩画と音楽の素敵なご本と共に。
《 絵と詩の祈り ひまわりの丘―福島の子どもたちとともに 》(発行:LABO)が届いたのだが、不思議なことに、この本に出てくる女の子、うちのオチビさんにソックリだ。ブログ内の「気ままフォト」に一枚写真あります。
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日付を書き直してくださった葬儀の時の挨拶状を頂いたのだが、数日前に80歳を迎えられたというみな子先生の文字が、ひときわ小さく見えた。
さいごに、三行、言葉が添えられていた。
【お電話を心から感謝いたします。 お話をさせていただいたら 溜まっていた悲しみが消えて やさしく あたたかいものに 包まれました。 今日 一日 元気で歩みます。】
《 今日 一日 元気で歩みます 》 みな子先生の今をこれ以上に表せる言葉はないのでは、と思い、今もこころが震えてくる。
またいつか、みな子先生の、奏楽で歌い、祈り、演奏会を開きたいものだ。“利尻昆布バザー 感謝演奏会”でもいいじゃないか 等と思ったりしている。こちらの近況をお伝えするために、お手紙と共に、稚内教会の利尻昆布をお送りできてよかった。end