昭和20年8月15日に終戦を迎えた日本。わたしの父は昭和2年、母は昭和6年生まれで、それぞれに、しっかりと物心ついてから戦争を経験し、終戦を迎えていたことになる。
しかし、昭和35年(1960年)生まれのわたしは、父からも母からも戦時の苦労話や悲しみの経験を聞くことがないまま、二人をそれぞれ天に送ってしまった。
まぁ、戦争のことのみならず、両親から聴いておきたかったこともあるのだけれど、かなわないこととなってしまい、いささか悔いが残っている。
今年わたしは53歳。15年前の自分はどんな風だったかと言えば、38歳の新米の牧師として、力一杯に走り出していた頃だ。
で、15年前は遠い昔なのかと言うと、決して大昔なんかではない。10年ひと昔+5年。いや、自覚的にはついこの間のことになる。
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とすると、わたしの両親にとって、あるいは、その周囲に居た祖父母にせよ、近所のおじちゃん、おばちゃんも、親戚のおじちゃんたちも、わたしが生まれた昭和35年というのは、ついこの間、戦争が終わったばかりだった、ということになる。
生まれ育っていった昭和35年から、40年代、50年の中学の頃までに、「ついこの間まで、戦争があったのだ」という気持ちになっていたかと言うと、そうではなかった。そして、恥ずかしながらその後も、そういう自覚がないまま高校生となりいつの間にか成人し社会人となっていた。
わたしは鈍感だったのだろうか、やっぱり(笑)。
九州の大分県大分市の大在(おおざい)という浜辺の《村》(今は町と言える程に発展?小学校も二つになっている)、あるいは、部落の集まりの地域に育ったわたしは、卒園した幼稚園の近くに防空壕があることをハッキリと覚えている。
けれども、その防空壕に、ついこの間までは、地域の人たちが身を隠し、戦火から逃れていたという気持ちを殆どもっていなかった。
3歳年上の姉はどうだったのかと思う。
姉も10数年前に亡くなっているので、姉の思いを聴くことは出来ない。末っ子でノホホンと日々を過ごし、さして物事や家族の軋轢などについても深く考えることが出来なかったわたしと比べれば、もしかすると姉は、だいぶ違う気持ちでいたのかも知れない。
どうだったなぁ、お姉ちゃん。
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《高度成長時代》について、WEBで調べて見ると、【高度経済成長期を前半と後半に分けると、前半期は昭和30年(1955)から昭和39年(1964)までで、後半期が昭和41年(1966)から昭和47年(1972)までだと云われています。】というような解説が出てくる。
わたしや姉、あるいは同世代の仲間たちを、スッポリと包んでいたのが「高度成長期」というものであり、《行け行けどんどん》の真っ只中に身を置いて生きてきたことになるわけだ。
わたしから見ての《おとなの人たち》は、われわれに、もしや、戦争を感じさせないようにと無意識のうちに振舞っていたのではないか、とすら思う。
そんなことを、わたしは最近感じるようになっている。それが、良いとか悪いではなくだ。
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こどもの頃、わたしの通う小学校の2キロばかり通学路は、まだ、鋪装されていなかった。時に馬が引かれて行くのも見ていた。トヨタ・カローラと張り合っていた日産・サニーが、田んぼの真ん中の道でエンコし、ボンネットから煙を噴いているのを見たりしたこともあった。
真空管のテレビのスイッチを入れてから、画面にニュースを読む人が現れるまで30秒か1分近くかかったような気がする。もちろん、白黒テレビだ。
家族6人で夕飯を食べているとき、TBS系の「ニュースコープ」という番組が流れていた。古谷 綱正(ふるや つなまさ)と入江 徳郎(いりえ とくろう)というおじさんたちが、ベトナム戦争のニュースを伝えていた。
そしてまた、【コンバット】というアメリカとドイツが闘うドラマを感動、或いは、興奮しながら姉と二人で見ていたのも記憶している。
ところが、【コンバット】を見ながら、少なくともわたしは、ついこの間まで、日本でも戦争が・・・・という意識が殆どなかった。
祖父母も両親も、なんにも話そうとしなかったのではないかと思う。
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小学校4年の頃だろうか。カラーテレビが登場。未来は明るかった。これからの世界がますます色付きはじめ、希望があふれていた。
父のきょうだいである一番下の叔父が日立製作所の家電部門で働いていたから、うちは何かあれば〈日立〉だった。
したがってテレビは“キドカラー”であり、“ポンパ”だった。それを宣伝する飛行船が大分市大在の上空にも飛んでいたし、全国を回ってくる“ポンパ号”という国鉄の汽車も国鉄大在駅に停まった。
わたしの育った大在のあたりは国鉄の電化など当然進んでおらず、蒸気機関車が真面目に当たり前だったのだ。
いとこが東京からやって来て、D51の蒸気機関車の写真を嬉々としながらカメラにおさめる姿が不思議でならなかった。
「けいすけちゃん、何が珍しいの?」と思ったものである。
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1900年代という20世紀を生き抜いた人々、あるいは、戦争世代と言える方たちが、次第に数が少なくなっていく。
『 少年H 』という戦中戦後のご自身とご家族を巡る本を書かれた妹尾河童さん(舞台芸術家・イラストレーター)が、ご自身の本を元にして完成・公開されている映画について語る姿を最近見掛けた。
妹尾さんのご両親は、わたしたちと同じプロテスタント・日本ナザレン教団の、特にお母さまが熱心なクリスチャンだった。
※妹尾さんの信仰については未確認も、キリスト教から大きな影響を受けていることだけは確実。
戦争はあっという間に始まってしまい、簡単にはやめられないと語っておられた。妹尾さんは父より少し年下。母とはほぼ同じ年ではないか。
何やら、いつの間にか戦争が始まってしまった、というようなことをわたしは恐れる。もしやという気持ちにさせられることが、今、時にあるのだから。
53歳のオヤジ=わたしが、万が一にも徴兵されることなんてないだろう。今や100メートルすらも全速で走りきる自信もない。
父が、母が、青い空の元に子育てをしてくれていた頃、静かに胸に秘めていた思いを、新たな気持ちで受け継いでいかなければいけない。
2013年夏、終戦記念日を前にふと思い、記してみた。end