入院先にお見舞いにお出でに下さった、ひとりのご婦人がこうわたしに語りかけた。
「先生、今度の日曜日、教会はどうなさいますか?」
実はわたし、とても礼拝なんて行けないよなぁ、と入院前に考えたきり、その件、どこかに放り出していたのだった。
だから、「どうなさいますか」と言われて、「こうします」という答えは無かった。
さりとて、程ほどの回復具合を実感しつつあったので、おそらく日曜日は教会へという本能を抑えるのも難しい。
でも、車もないし、慣れない札幌を電車やバスを乗り継ぐ体力もない。Taxiで知り合いの教会に行くのも気が引けるというのが正直なところだった。
「先生、今度の日曜日、教会はどうしますか?」と語りかけたご婦人はこう続けられた。
「病院の駐車場に迷って見上げましたら、○○○○教会がすぐそこのマツダの所から入ったらありますよ・・・」と言われるではないか。
嬉しかった。すぐ近くに教会があることを知っただけで。
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そんなやり取りがあった翌日。信頼する札幌在住の牧師夫妻が遊びに来てくださった。
先のご婦人は、目の前に座っている牧師夫妻とは旧知の仲だと知っていたので、○○○○教会が、道路の向い側の、歩いて5分程の所にあるという話を伝えてみた。
すると、
「森先生、○○○○教会は、わたしが結婚するまで5年間お世話になった母教会です。当時導いて下さり、牧会してくださった○○○○先生は、今はその教会でのお働きを無事終えられて引退。今も出席されています。わたしたちが婚約式を挙げた教会なんです」と仰るではないか。
いやはや、世間は狭いというより、神さまが、“またまた”目に見えて働かれた。“たまたま”ではなく、またまた神は姿を見せられた。
日曜日の朝が楽しみだった。
前日までにつらつらと眠り過ぎていたからか、日曜日を前にやや興奮気味だったからか分からないが、夜中に目を覚ましてしまい、NHKの【ラジオ深夜便】を生まれてはじめて終了まで聴いてしまった。それはそれであれこれ考えられて感謝だった。
日曜日の朝10時。
外出許可書には、看護師さんの指示通り記す。
◆目 的:退院準備のため
◆目的地:病院周辺
◆時 間:10時~12時
◆緊急時の連絡 携帯番号 080・・・・・
○○○○教会は、わたしの属する日本基督教団ではないところがまたよかった。興味津々、わくわくの日曜日である。妙な気もつかわなくてよろしい。ひとりのキリスト者で居られる。
受付でもたついていると、先の牧師夫人が電話を入れておいてくださったようで、「森牧師ですか」と声掛けされてビックリ。だからといって何の特別扱いもなく礼拝は始まった。座布団を借りてきて、三重にして座ったこと以外は何も。
説教が始まったのは10時55分。何分お話になるのだろうかというのも興味があった。
手振り身振りが入り、熱い語りが最高潮を迎えた頃、時計は11時40分を過ぎていた。徒歩5分とは言え、外出許可を頂いた約束の時間に間に合わないのはまずいと思い、途中で礼拝は失礼することにした。残念。
しかし、語りのペース。そして、ヘブル書からの説教のみ言葉の切り口、聖書の引用の仕方。旧約を開き、さらに、イシュマエル誕生直後のアブラムの謎の13年等、わたしにとっては教えられることばかりだったし、考えさせられた。
やはり、説教を聴かせて頂くことが必要だと感じた。
かなりゆっくりしたペースで語られる80歳前後とお見受けした先生の言葉数は、決して、多くはなかった。普段通りの時間配分なのか、それとも、久しぶりの説教で力が入られたのか、それは分からない。
でも、そんなことはどうでもいいじゃないか。
そこに教会があった。ただそれだけでも感謝。そんな日曜日であり、土曜日であり、1週間の入院の日々となったのだ。end