20年少し前頃学んでいた神学校の何年か後輩に、入学前まで渥美清や山田洋次という、「山田組」と呼ばれる映画製作に長年関わって来られた方が居られた。今は東北の雪深い教会で牧会されているY先生。個人的にお話しすることは、偶然なのだが、殆ど無いままだった。おそらくわたしよりもお歳は上。夜間の学校では、後輩が年上なんてのはざらだった。
Y先生のことで一つ印象に残っていることがある。それは卒業論文の題名だ。同窓会報などで正確に調べれば分かるのだけれど、確か「説教題の神学」というようなものだったと思う。論文の内容も神学校の図書館に行けば、卒論は保管されているので読ませて頂くことが出来ると思う。
果たしてどれくらいの関連文献があるのだろうか。あまりに少な過ぎて、とてもわたしなど手出しできないけれど、おそらく、Y先生は映画のお仕事に関わって居られた頃に、広告や宣伝が専門だったのかも知れない。
かつて吉祥寺教会(東京都武蔵野市)で牧会され、東京神学大学で教鞭をとられ、多くの牧師を育て、かつ、数多くの説教集を出版された竹森満佐一先生は、神学的にであるのか、信仰的な信念かは不明だが、基本的には説教題は付けない方だったはずだ。いやいやそれどころか、宗教改革の時代の人々も説教題など付けていないはず。そういうことも頭の片隅にある中で、きょうは“説教題”の話題である。
先日、数週前の礼拝をやむを得ないご事情でお休みされたひとりのご婦人に、説教テープをお貸しした。パソコンを使っている生活環境には無いご様子でもあり(メッセージのブログをご存じないと思う)、たぶん、説教を聴きたいと考えてくださっているのでは、と思ったのでこちらからお声がけしたのだった。
1週間後、小さなメッセージが添えられた便せんに「それにしましても毎回牧師先生の説教題はよいですね。礼拝に出席して是非ともお聴きしたい題です」とあった。ちなみに、その日の説教テープの題は「そこに道があるのだから」だった。
「素晴らしい説教でした」ではなく、素晴らしい“説教題”でした、というところが素晴らしいではないか、と自分を慰めている。いやいや、実際の所、説教が聖霊に導かれた結果、まずいなぁという自己嫌悪に陥るような内容だったとしても、題が心に残るだけでも、スンバラシイこと・・・のはず。
いやいや、よ-く見ると、お便りの最後には、「勿論 素晴らしい礼拝です。感謝」とある。誉められているのは“礼拝”。深く考えれば、礼拝全体を心底喜ばれていることが一番喜ぶべきことかも知れない。シクシク。
かつて仕えていた教会の前には路線バスの停留所があった。教会の入り口もバス通りに面していたので、バスが停まる度に、説教題と「どなたもご自由にどうぞ」の言葉が自然に目に入っていたはずだと思う(わたしはその町でバスに一度も乗らなかった)。
ある日、白髪の一人のご婦人が教会を訪ねて来られた。そして、お話しをしていると、毎週、説教題をバスの中から楽しみにみておりました、と言って下さるではないか。嬉しい思い出である。看板を書き続けて下さっていたご婦人(90歳を越えていました)と大喜びしたことも懐かしい思い出だ。やがてその方は、洗礼を受けられたと離任後に伝わって来ている。
何事も、人は誉められると嬉しいものだと思う。それは幾つになっても変わらない。説教の中身がだめでも、せめて、説教題だけでも頑張ろう、と思ったりもするのである。
道内で活躍される新進の説教者の中に、「聖書の中の人間ばん馬」「どんなガンコな汚れでも」「おっと、ここでタイムです」「自由人(終身コース)募集」 等々、な、な、なんだこれはっ!と身を乗り出したくなるような説教題を掲げている方が居られる。大いに刺激を受けております。