きょうは8月最後の日曜日。どなたがお出でになるかなぁ、出だしが悪いかな、等と思いながら招きの言葉による礼拝開始を待った。
礼拝は、来会される方が、一人ひとり人生のドラマを抱えて神さまの前に身を置くのだから、神さまを中心にして、そこから紡ぎ出される出来事は予想できないものだと思う。そういう意味で、わたしはいつも、日曜日の教会には、何かが起こるという小さな期待を胸に抱いている。
一ヶ月ほど前の日曜日には、数年来礼拝をお休みしていた(正確に調べていないので、どれくらいの時間が経過したのかは分からないが)I姉が、何と、2階の礼拝堂に上がってくると座っているではないか。少し前にお宅をお尋ねして家庭での聖餐式を行った際にも、「足と腰が病んでいたいんです」と沈痛な表情でお話になったばかりだったから驚いた。しかも、家から歩いてお出でになったというではないか。奇跡だと思った。
礼拝説教は、いつも講壇に立って、語り始めるまで完成しないと考えるわたしだが、まさに、I姉の姿がそこにあることによって、準備していた説教の内容は新たな言葉に変化して紡がれていった。わたしはそんな日曜日が好きだ。
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きょう、礼拝が始まる10時半の少し前に、見慣れない女性が姿を見せた。幼稚園の教師をされているF先生の後についてお出でになったので、あー、きっとお友だちなのだろうと思っていた。きょうは、旧約聖書の、教会の信仰生活の長い方でも聞き慣れない物語を語っていたわたしの顔を、しっかりと見ながら、一生懸命に聴いて居られる姿が新鮮だった。
礼拝の終わりに、報告・お知らせの時間がある。この日の新来会者として紹介されたのがその女性だった。F先生に紹介してもらったほうがいいかなぁ、とわたしが伝えると、「実はきのう入籍しまして・・・・」と言うではないか。後で聞いてみると、園長先生にも正式な報告はしていなかった、という。
はにかみながら挨拶する二人に、一同、なんとも嬉しい気持ちがこみ上げてくる。一通りの報告が終わった所で、Cさんの声を聞いていなかったという理由を付けて、ひと言の挨拶を願った。
式を待たずに籍を入れて歩み出されたお二人のために、今わたしたちにできることはお祈りすることしかないと思い、祈りだした。お祈りの中でごく自然に「すこやかな時も、やめるときも、愛し、敬い、慰め、助け、互いの最も弱い所を受け入れ、・・・・二人だけで幸せになるのではなく・・・」という言葉が続いた。
一階に降りて、二人を待った。二階の礼拝堂では、様々な祝福と励ましの言葉が掛けられていたのだと思う。かなり時間が経って降りてきた二人に、牧師室の前にある長いすにどうぞ座ってと促し、アイスティーを差し出した。
花嫁というのか新妻というのか、彼女の目を見るとウサギのように赤い。いや、F先生の目も赤い。そしてF先生の素晴らしい言葉を聞いた。「僕にはもったいない人なんです」と真顔で言う。今思い出しても感動する。嬉しい、美しい言葉だと思う。「お祈りまでしていただいて」と二人は声をそろえて言われたが、いや、お祈りしかできなかったんだよと心の中で答えた。
教会は礼拝を中心にする神の民の旅路だ。旅の途中にはさまざまなドラマがある。この日もドラマがあった。二人が集会室にいた人生の大先輩達に挨拶して帰ろうとすると、みんなゾロゾロと出てきた。そして、いろんな形でおめでとうの言葉を贈っている。さらに拍手が続く。二人の門出を祝う拍手が自然に出てくる。うーん、素晴らしい。美しい光景だった。二度とない。今日しか見られなかった出来事だ。
皆さんが家路につかれた後、新来会者カードを見直した。カードには、「N・C」とあった。その通りにわたしは教会の皆さんにも紹介した。
でも、少ししてから礼拝の受付簿を見ると、きのう入籍をしたばかりの「N・C」さんの名前は、「F・C」と遠慮がちに小さく、でもハッキリと書かれていた。きっと「F」と書いたのは、この場が初めてだったのではないかと思う。
お目出度うFさんご夫妻。僕たちは君達と会えて幸せです。神さま、ありがとうございました。